礼拝説教要旨(2013.05.05.) ウェストミンスター小教理問答K日本長老教会設立20周年記念礼拝
特別の摂理=命の契約=
(創世記 2:15〜17)

 神は、ご自身がお造りになった世界、すなわち「すべての被造物とそのあらゆる動き」を、摂理の御業によって、「最もきよく、賢く、力強く」保持し、統治しておられる。この世界、全宇宙は、神の力強い摂理の御業によって保たれ、統治されているので、私たちは、何の疑いもなく、日々の営みを続けることができる。神が、起こり来る一切を支配しておられるからである。それに加えて、私たちは、その創造に始めにおいて、神は、ご自身がお造りになった人間を保持し、また統治するため、特別の摂理の業を成しておられたことを忘れてはならない。問12「神は、創造された状態の人に、どのような特別の摂理の行為をとられましたか。」答「人を創造された時、神は人に、完全な服従を条件として命を契約されました。しかし、善悪を知る木の実を食べることは、死を制裁として禁じられました。」

1、神がお造りになった全てのもの、「それは非常に良かった。」その完全で、何ら欠ける所のないこの世界で、人は神との確かな交わりを与えられ、それを喜び、また務めを与えられ、生かされていた。(15節)神が人を生かし、人は神との幸いな交わり喜んでいた。神はその時、その完全な交わりを保つため、人に、「完全な服従を条件として命を契約され」たのである。「服従」を求め、それに従うように迫り、従う者に「命」を約束された。(16〜17節)この約束については、「業の契約」または「命の契約」と言われ、神が人に服従を求め、従い通す時、命が保たれるように、「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と、命じておられた。その命令に従う義務を求めておられたが、それは人の行動を、禁止命令で縛ることではなかった。人にとっての幸いを保証し、保持するためであり、また人を治めようとされたことであった。

2、神が人との間で約束され、確かに契約を結んで下さったのである。けれども、通常の人と人との契約とは、全く違うこと、神が主権者として、人に命を約束されたことを覚えなければならない。人に対して、命を約束して下さった意味で「命の契約」であり、服従を条件に求める意味で「業の契約」と理解されている。神が主権者として、契約の内容や条件の一切を決め、人とその契約を結ばれたのであった。人がその条件を立派に果たすのか、それとも、不十分にしか果たし得ないのか、そのような人間の側の何かは、ほとんど問題とされていない。人に求めれているのは、言われた通りに従うか否か、ただそれだけである。ここに、神の前で、人がどのように生きるのか、生きたらよいのか、神は人に何を求めておられるのか、とても大切な真理が浮き彫りとなる。神は、ただ「服従」の一点のみを求めておられた。これが神に造られた人間にとっての、善悪の規準であった。ところが人は、神に対して、何がしか自分の努力や功績を認めてもらいたいと、常にそのように思うのである。

3、多くの人が、神は何故、善悪の知識の木を置かれ、その木からは「取って食べてはならない」と、そのような禁止命令を出されたのか、その理由を知りたいと言う。何故・・・? 実際、そのような問は、他にいくつも挙げられる。しかし、私たちは、神が「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と仰せられたこと、その事実を受け止めなければならない。「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」との神の言葉、約束は、神から自由を与えられていた人間にとって、生きるために十分かつ完璧なものであった。心を縛られることは全くなく、園は、「非常に良かった」と言われるもので満ちていたからである。行動は何ら制限されず、善悪の知識の木を見て、神の戒めを思い出せばよかった。「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」との警告は、服従することの尊さを思い出させ、少しでも不服従の思いが頭をかすめるなら、そこで立ち止まることを導いていた。実際にアダムとエバは、神の戒めに従い、服従して歩んでいた。けれども、彼らはやがて、自らの意志で決断し、神の戒めに背くことを選び取ってしまった。

<結び> 私たちは、最初の人が神に背き、罪に堕ちたことを、聖書を通して知らされている。どのように堕ちたのか、そのことについての問答が13〜15に続くが、今朝、はっきり覚えておきたいことは、神が人と命の契約を結んで下さっていたこと、戒めは決して人の心を縛るものではなかったこと、警告に耳を傾けて服従を貫くなら、命が約束され、神との交わりという最高の幸いは、必ず保証されていたという事実である。人の行動は、何ら制限されず、人は全く自由を謳歌していた。けれども、神に背いた、その事実により、全ての人が罪ある者となったのである。その時以来、誰一人として、自分からは神を求めることはせず、神からの招きと導きなしに、神の元に立ち返ることはできなくなったのである。(創世記3:1-13)

 私たちは、神に背いた人間の罪を認めるように、そして、その罪の赦しのために十字架に架かられた救い主、主イエス・キリストを心から信じるように招かれている。自分らは決して罪を認めることのない私たちが、自分の罪を認めるようになったのは、どうしてだったのだろうか。神が聖霊を遣わして、私たちの心を照らし、また導いて、神に背いている罪の事実を、気づかせ下さったからである。それ故にパウロは、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です」と、喜びの叫びのように語る。(エペソ2:8)私たちも自分の救いについて、思い返そうではないか。そして、神が人に命を約束し、人が背いてもなお、立ち返る道を備え、私たちを、本当の意味で幸いな日々を生きる者となるよう、導いて下さっていることを感謝したい。それは、神が最初に約束されたことを、何があっても守り抜こうとされる、神ご自身の真実に根ざしていることに他ならないからである。(※イザヤ9:6-7、テモテ第二2:13、コリント第一1:9)