神は、ご自身が永遠において決意されたこと、すなわち「聖定」を、「創造と摂理の御業」において実行される。「創造の御業」というのは、「神が、すべてのものを無から、力ある御言葉により、六つの日にわたって、万事はなはだよく造られたこと」であり、そして人間は、他の被造物とは違うもの、神のかたちとして造られていた。こうして神は、お造りになった世界を、ご自身の摂理の御業によって治めることとされたのである。問11「神の摂理の御業とは、何ですか。」答「神の摂理の御業とは、神が、最もきよく、賢く、力強く、すべての被造物とそのあらゆる動きを保ち、治めておられることです。」
1、神が創造の業を実行しておられた時、同時に摂理の業を、既に実行しておられたと考えられる。一日毎に「夕があり、朝があった」と記されていること、また「『天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。』そのようになった」と記されていること、これらの記述は、この世界が、安定した時間と空間を保つものとして造られていったことを物語っている。神は、ご自身が「聖定」されたことを、「創造と摂理の御業おいて」実行されたのである。そして、その「摂理の御業」については、今に至るまで、継続して実行しておられることになる。この世界が、極めて安定したものとして保たれていること、そして、私たち人間が決して関われないところで、確かに治められていること、これらは、全く否定できない事実である。時間も空間も、極めて安定している事実は、驚くほどのことである。
2、「神の摂理の御業」について、問11の答で、それは「保持と統治」であると言う。神がお造りになったこの世界を、「最もきよく、賢く、力強く・・・保ち、治めておられる」と。天体の運行しかり、季節の移り変わりしかり、あらゆる国々の存在しかり、私たちの日々の生活しかり・・・である。そのことについて、主イエスが見事に語っておられる。「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。」(29〜30節)神の摂理による保持と統治は、神の「支配」と言い換えることができる。その「支配」は、かくも確かなものであって、全く揺るがないことを、主イエスは断言しておられた。その明解さに、私たちは納得すると同時に、戸惑いさえも覚える。神を信じつつ、果たしてそこまで神のご支配が及ぶのか・・・と。そして神を否定する人々は、信じられないことの根拠のように思う。
3、この世で、科学が全てと考える人々は、この世界は、神によってではなく、「自然法則」によってこそ治められていると、何の疑問を挟むことなく言うであろう。けれども、聖書は、神がこの世界をお造りになり、摂理によりこれを治めておられるのであり、自然法則に則って運行するようになさったことを告げる。(マタイ5:45、詩篇104:5-30)世の人々は、それでは、なぜ人に突然不幸が襲うのか、この世の不公平、また不平等を、なぜ神は放置するのかと、激しく問い続ける。この難しい問に答えるのは、私たち人間にはほとんど不可能である。神が定められたこと、神が実行に移しておられること、それらについて、私たちが知り尽くすことはできず、また人に説明し、理解してもらうことはできない。むしろ、神のご支配を認め、私たちが神を信じて、どのように生きようとしているのか、そのことの大事さを心に留めなければならない。神を恐れ、神の前に、そして人の前にも慎みをもって生きるか否かである。人は自由を与えられ、その自由を働かせ、責任ある生き方をするように造られているからである。
<結び> 私たちは、この世で起こり来る事柄に、「偶然」はないと信じている。また神が全てのことを永遠において定められたなら、結局のところ、人間は「運命」や「宿命」にもてあそばれるだけだ、との考え方も退ける。その確信があっても、現実に私たちが理解に苦しむ出来事が、必ず襲いかかる。その度毎、「なぜ?、どうして?」と、私たちは問い返すことになる。それでも、神のご支配は完全で、「最もきよく、賢く、力強く」と、心から信じて告白することができるだろうか。地震災害は、今や世界中で目の前に迫っている。病気や事故の心配は、日常的に襲いかかっている。それに加えて、国と国の戦争のきっかけは、今極度に高まっている。けれでも、神の摂理による保持と統治は揺るがないものと、心から信じること、主イエスはそのことを教えておられるのである。人の命を、本当の意味で支配しているのは、天の父であり、その方が一切を支配しておられることを知りなさいと。
私たちが、一日の仕事を終え、夜、床に着くこと、その何でもない日常の事柄を、何の疑問もなく続けられること、そのことに目を向けたい。主イエスは、太陽の温もりは全ての人に平等に注がれていると言われた。自然の営みは、神がそのように定められたのであり、私たちは暗黙の内に、それを信頼して生活しているのである。私たちの人生を、神は支配しておられる。生きるも死ぬも、私たちは神の手の中にあると、心から信じること、そして、神の前に責任のある一人として、人生を全うすること、それが求められている。このような確信によって生きるなら、目の前に起こり来る事柄に、慌てふためくことなく、落ち着いて物事に当たることができる。すなわち、突然のことにより、不意に命が奪われるかもしれない・・・等との心配は、全くいらないことになる。「神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」とパウロが断言するのは、正しくそのことについてである。私たちも、神を信じ、常に、心安んじて日々を過ごす者とならせていただきたい。
(ローマ8:28、箴言16:1-4、19:21)
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