礼拝説教要旨(2013.04.21.) =2013年度主題聖句=
主のみおしえによって歩む人々
(詩篇 119:1〜8)

「幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々。
  幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々。」                             (1〜2節) 私たちは、2013年度主題聖句として、詩篇119:1〜2節を掲げることとした。聖書は神の言葉であると信じ、信仰と生活の唯一の規準と告白している私たちが、思いを新たにして聖書に親しみ、聖書によって養われることを願ってのことである。聖書は、私たちクリスチャンにとって、そこに拠って立つ場所そのものである。寝ても覚めても、そこに立ち、そこに示される神のみこころを追い求めること、その大切な視点を、今一度思い返してみたい。すなわち、私たちにとって、何が一番大切なことなのか、そして、何が本当に幸せなことなのか、繰り返し主題聖句を思い返したいのである。

1、ところで、世には「幸福論」なるものが、実に様々満ち溢れている。人々は右往左往しながら、より多くの人が目指す道に、何かがあるのではないか・・・とばかり、あやしげな教えにも飛びついている。それはお金儲けの道であり、いかがわしい宗教であり、どうして・・・?と首をかしげるようなものもある。ようするに、本当の幸せは何かを問うなら、ほとんど答は見つからないのが現実である。

 それに対して、聖書は、「幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々。幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々」と、本当に幸いな人は、「主のみおしえによって歩む人々」であり、「心を尽くして主を尋ね求める人々」であると、ズバリ言い切る。聖書は、この詩篇のみならず、何度も何度も、本当の幸福、また幸せについての教えを繰り返し語る。人は上辺の幸せを求めるが、本当は内面のこと、心が満たされること、それこそが大事と。生ける神がおられ、その神の教えに聞き従うことが、私たち人間にとって、本当の幸せなのである。

2、目に見えるものは、必ず過ぎ去ることを忘れてはならない。目に見えないこと、すなわち、目には見えずとも神がおられることを、心に留めて生きること、それが人間には、殊のほか大事である。人は神のかたちとして造られたからである。神に似せて、神の尊いご性質を受け継ぐ存在として生かされている。始めから、神の命令に従うことによって、神との親しい交わりの中を歩むようにと造られていた。最初の、はなはだ良かった時、神の戒めに従うよう造られていたことは、その後の人間にも、ずっと当てはまることである。どんなにそこから逃れたいと願ったとしても・・・。

 全ての人にとって、「主のみおしえによって歩む」なら、「全き道を行く」ことになり、そのように歩む人は、この世で安全と安心が約束され、幸いな日々を生きることができる。(1節)もし自分の判断で、自分が良かれとする道を行くなら、また多くの人が行くからと、その道を突き進むなら、その先は滅びと覚悟しなければならない。そのことは、主イエスご自身が語っておられる。神に従い、神が導いて下さる道を、聖書を通して探ること、それが私たちの成すべきことである。(マタイ7:13-14)

3、「主のさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々」(2節)と、同じ教えを言い換える。聖書を通して、神の教えに耳を傾けるのは、主なる神ご自身を追い求めることである。神が私たちに何を求めておられるのか、神は私に何を語ろうとしておられるのか、心の耳を傾けること、心を開くこと、その態度や姿勢は、何よりも大切である。そのように心掛けるなら、私たちは、実に多くの罪や過ちから守られるに違いない。神が私たちを、不正から遠ざけて下さるからである。「主の道を歩む」よう整えられるのである。私たち人間が、あらゆる誘惑から守られ、正しく歩むのに、神の助けや導きなしには、ほとんど不可能である。(3〜4節)

 私たち一人一人は、神によって支えられ、導かれ、常に正されない限り、全く危うい存在なのである。詩篇の作者と共に、神に祈るしかない。けれども、その祈りこそ、私たちには大きな力となる。祈りは、全知にして全能なる神を呼ぶことである。(5〜8節)聖書を開く時、私たちの心も開いて下さいと祈ること、すなわち、神のみこころを教えて下さいと、祈りつつ聖書を読むのである。そして、みこころを知ったなら、そのみこころに従わせて下さいと祈ることが大事となる。

<結び> 「私は、あなたのおきてを守ります。どうか私を、見捨てないでください。」こう祈る詩篇作者は、どこまでも主に頼る他のない、弱さの中にある自分を自覚していたに違いない。私たちも、ただただ聖書に頼ること、聖書を開いて、神のみことばに聞き従うことを、何よりの幸いと心から告白しようではないか。神に造られた人間にとって、最高の喜び、最高の幸せは、神に従い、神と共に歩むことであると。

 この世がどんなに富を誇り、地位や名誉を褒めそやしても、私たちは、神を喜び、神と共に歩むことを追い求めるのである。目に見えるものは、必ず廃れ、朽ち果てる。しかし、私たちの望みは朽ち果てることはない。天の御国での、永遠の交わりと祝福が約束されている。そのためにこそ、主イエス・キリストが十字架に架かり、そして三日目によみがって下さったのである。聖書を通して、私たちの信仰が、一層豊かなものとされるよう祈りたい。