礼拝説教要旨(2013.04.14.) 
神のかたちとして造られた人間
(創世記 1:26〜31)

 神は、ご自身が永遠において決意されたこと、「聖定」を「創造と摂理の御業」において実行される。その「創造の御業」は、「神が、すべてのものを無から、力ある御言葉により、六つの日にわたって、万事はなはだよく造られたこと」というのが、問9の答であった。天地を造られた神は、全てを、はなはだよく造られた。これが全ての物事の始まりであると聖書は告げる。この大前提を心に留めること、これを世界観とする信仰を追い求めること、これは私たち人間にとって、大切な課題である。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」と言われるのも、また「主を恐れることは知識の初めである」と言われるのも、この視点からの教えである。(伝道者の書12:1、箴言1:7)

1、問10「神は人を、どのように創造されましたか。」答「神は人を、男性と女性とに、知識と義と聖において御自身のかたちにしたがって創造し、被造物の支配を託されました。」神の創造の御業の最後に、人は神の「かたち」として造られた。他の被造物とは明らかに違うものとして、神は「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように」と、明確に語っておられた。神のかたちに造られた人間に、万物を治めさせようと、その意図も明確にされた。神は、神ご自身に代わって、人間が地を治めるよう、その務めを人に与えられたのである。人はそのことを弁えているか、全く頓着せず生きるのか、それによって生き方が違ってくる。けれども、現実の人間は神の「かたち」と言われても、その「かたち」は何のことを指すのか、大いに戸惑うのも事実である。

2、「かたち」と聞くと、私たちは「形」「像」を思い描く。目に見える「かたち」そのものを。けれども、「神は霊である」から、神には、私たちの目に見える「かたち」はない。その「かたち」とは、神の本質的なご性質を指している。目には決して見えない、神の本質的な「かたち」に似せて造られたのが人間であり、それ程に尊い存在として、人が造られたのである。その「かたち」について、私たちは尚、問い続けることになる。神のどのような性質なのか・・・?その答として、新約聖書の二つの個所が根拠に挙げられる。「新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」(コロサイ3:10)「真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を着るべきことでした。」(エペソ4:24)どちらも、キリストにあって生まれ変わった人について語られている。初めに造られた時、確かに備わっていたものが、堕落により失われ、それが新生によって回復される、それが、「知識」と「義」と「聖」と明らかにされている。男と女に造られた人は、「知識と義と聖において御自身のかたちにしたがって創造」されていた。その尊い「かたち」は、堕落によって失われたが、キリストにあって新たにされる。この新生、または再生の恵みにつながる人間理解が、私たちの信仰の大切なカギを握っている。

3、最初の人アダムが、「真の知識」において、神の「かたち」に造られていたことは、神が命じられたことを理解し、その言葉に従って歩んでいたことに現れている。また具体的には、あらゆる生き物に名をつけたこと、そこに生き物を見る目や、物事の本質を見抜く目があったことが告げられている。神ご自身の意図を理解し、それに従って行動していたのである。「義」については、「すべてのものを支配せよ」との命令に従い、その通りに地を治め、実際に地を耕し、そこを守っていたことに、神に従う者の「義」なる歩みを認めることができる。そして「聖」についても、神との親しい交わりを全く疑うことなく、その交わりを喜び、神との交わりのみならず、エバとの関係においても、平安と喜びの中にあったことに、「聖」であり、「聖別」された歩みを見出すことができる。(創世記2:23〜25)人は神のために存在し、神との交わりを喜ぶ者として、神によって生かされていた。人に「知識」があり、これを働かせて考えることができるのは、また「感情」を持って、喜怒哀楽を表すことができること、そして、「意思」、または「意志」を働かせて行動できるのは、神の「かたち」として人が造られていることによる。人に「良心」があり、善悪の判断が可能なのは、やはり神の「かたち」によること、「知識と義と聖」において造られているからである。人間の尊さ、素晴らしさ、その価値の根源として、神の「かたち」を心に留めるなら、より深く人を知ることになる。

<結び> ところで、神の「かたち」として造られた人間は、神ご自身から「被造物の支配を託され」ていた。「知識と義と聖において」、「非常に良かった」と言われる存在として造られていた。しかし、今ある人間の現状は、その最初の状態からかけ離れている。神の戒めに背く罪を犯し、堕落したからである。その罪とは、いわゆる犯罪ではなく、神の言葉に聞き従わない、不従順、不服従である。それによって、人は神無しを選び取り、自分が神となる生き方を当然とすることになった。けれども、その神無しの生き方こそ、あらゆる罪と悪、邪悪や争い、腐敗や退廃の根元となっている。私たちは果たして、今どのように生きようとしているだろうか。どのように生きているか。

 最初に人間が造られた、その良い状態にこそ、私たちは今一度立ち返りたいと、そう願わないだろうか。是非とも、また心から願いたい。しかし、願ったからと言って、すぐ叶う訳ではない。私たちの心の頑なさ、罪に汚れた邪悪さは途方もなく根深い。イエス・キリストの十字架を仰ぎ見る以外に、罪を離れる道は、何一つないことを認めなければならない。私たちの罪の身代わりとなって十字架で死なれたキリストを信じる時、私たちは新しいいのちに生きる者と変えられる。それが新生の恵みである。改めて、神によしとされるいのちを生きることになる。キリストにあって、生まれ変わったいのちに生きる者を、神ご自身が支え、導いて下さる。その歩み、その生涯は、それまでとは違ったものである。神を喜び、神が愛しておられる人との交わりを喜ぶ、この地上においても、天の御国を喜ぶ、そのような歩みである。そして、それが教会の交わりであり、そのような歩みを私たちは、心から喜びたいのである。