礼拝説教要旨(2013.04.07) 
初めに、神が天と地を創造した
(創世記 1:1〜5)

 受難週、イースターが過ぎて、新年度を迎えた。今日からまたウェストミンスター小教理問答を読み進むことにする。問7の答は次の通りであった。「神の聖定とは、神の御意志の熟慮による永遠の決意です。これによって神は、御自身の栄光のために、すべての出来事をあらかじめ定めておられるのです。」神は、永遠において全てのことを定め、起こり来る一切を、「御自身の栄光のために」定められた。全ての事柄は、決して偶然ではなく、定められたこととして生起し、そして過ぎ去る。単なる必然でもなく、また運命としてでもなく、神の聖定として定められたことなのである。

1、問8は、その聖定がどのように実行されるかを問う。「神はその聖定を、どのように実行されますか。」答、「神が聖定を実行されるのは、創造と摂理の御業においてです。」その意味するところは、創造と摂理の働きによって、神はご自分が定められた「聖定」を、確かに実行されるということである。この目に見える世界があること、そこに生き物いること、私たち人間が現に存在してること、これらは、神がこの世界を創造された事実を物語り、そして、その世界が保たれているのは、神の摂理の御業によるということである。創造の御業について聖書が告げるのは、「初めに、神が天と地を創造した」と明解である。問9「創造の御業とは、何ですか。」答「創造の御業とは、神が、すべてのものを無から、力ある御言葉により、六つの日にわたって、万事はなはだよく造られたことです。」その御業は、無からの創造であり、言葉を発してのこと、六日に渡ってのこと、そして全てがはなはだ良く造られたこと、これらが主要な事柄である。

2、私たち人間にとって考えられる前提は、今ある現実が全てである。それに対して、神がご自身の計画を実行に移されたのは、全くの無からの創造であった。人が何かを造る時、材料となる物を揃え、それを組み合わせる。けれども神は何の材料を使うことなく、「光があれ」と仰せられた。「すると光があった。」(1〜3節)「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです」と言われる通りである。(ヘブル11:3)神は、「力ある御言葉により」、この世界を無から創造されたのである。(※詩篇33:9)更に、その創造の業には、時間の創造も含まれていた。すなわち、「六つの日にわたって」と言われる「夕があり、朝があった」、そのような「六日」の間に、この世界が造られている。その「一日」が、今の「一日=24時間」でないことは、少なくても三日目までは確かである。神は何らかの時間の区切りのある「一日」毎に、この世界を造り、その創造の業を通じて、この世界を時間と空間の中に置かれた。私たちは、造られた世界、この宇宙の中にある太陽系に住まわせられ、一日24時間、一年365日という時間と空間の中に居る。しかし、神にとっては、「一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」(ペテロ第二3:8)神は実に、何万年も経過した宇宙のように、この宇宙、世界をお造りになることもできる。私たち人間は、自分の知識に限りがあると認めること、それが何より大切となる。しかし、それが踏み出せない一歩でもある。

3、神の創造の御業に関して、初めに「光」が造られたこと、それは全てのエネルギーの源として、極めて重要なことであった。聖書は科学や物理の教科書とは違うとしても、この事実は真に理にかなっている。「光」こそ究極のエネルギーであり、先ず「光」があり、「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ」と命じられ、そのようになった「第二日」があった。乾いた「地」が現れ、「海」が定まり、植物が「種類にしたがって」生じさせられた「第三日」、太陽、月、星が造られた「第四日」、水の中の生き物と鳥が造られた「第五日」、そして地の生き物と人間が造られた「第六日」がある。神はそれら全てを「はなはだよく造られた」のである。この世界は、極めて良く造られた。そのような世界が、最初に存在し、人はその中で、神との交わりを心おきなく喜ぶ者として生きるよう造られていた。問答は10へと進むが、最初に造られたこの世界、この天と地が、「はなはだよく造られたこと」、その事実を覚えること、知ることが先ず何より大切である。現実のこの世界には、必ず善と悪が混在し、多くの人が、悪の起源を問わずにはいられない。しかし、創造の初めにおいては、造られた「すべてのもの」が、「見よ。それは非常に良かった」と、聖書は明らかにしている。(4〜31節)そして「神が造られた物はみな良い物」とも。(テモテ第一4:4)※悪の起源については、創造の御業とは、また別の事柄なのである。

<結び> 『・・・神は、創造にあたってどれだけ空間をお使いになったのでしょうか。答は言うまでもなく、神は空間を用いることなく創造をなさったのです。神は、無から空間を創造されました。ですから、神は私たちの時間を(あるいは私たちが時間の尺度とする太陽系をと言ってもいいでしょう)創造されるのにどれくらい時間がかかったのかと尋ねるなら、答は、全く時間はかからなかった、の一言です。神は、他のもろもろと同様に、無から時間も創造されました。ですから、神が語られたとおりになったこと、神が命じられて時間が始まったのだと、素直に信じることで満足しましょう。』
 『しかし、キリスト教信仰の基本的スタンスは、聖書が現在においては起こらないことを語るとしても、語られていることは真実である、というものです。例えば、私たちはキリストの奇蹟をそう理解します。カナの婚礼の席上で、イエスは神の力を瞬間的に働かせることによって、ワインを(それも極上のワインを)お造りになりました。・・・私たちは、これが創造における神の御力のしるしそのものだと信じます。・・・』(G.I.ウィリアムソン「よくわかる教理と信仰生活」第7課より)

 「初めに、神が天と地を創造された。」この聖書の書き出しを信じる信仰は、確かな世界観を持った生き方を、私たちに約束してくれるものである。(伝道者の書12:1)この世は、到底当てにできない筈のもの、富やお金にどうしても支配される。私たちも含めて、人は分かっていても、目の前の現実に振り回され、右往左往する。そんな時代だからこそ、決して揺るがない、確かな土台を持った生き方が、私たちには必要である。天と地を造られた神を恐れ、この神が遣わされた救い主キリストを信じて、神と共に歩む確かな日々を、生かしていただこうではないか。