先週は、主イエスが、人々の激しいののしりや嘲りを耐え抜かれたのは、罪人の救いを成就するため、私たちが救われるために、罪に対する神の裁きを一身に負っておられたことを覚えた。決して十字架から降りることなく、自分を救おうとはされなかった。父なる神に見捨てられる痛みを味わい、それでもご自分の霊を父に委ねて息を引き取られた。(27:45-50)主イエスは、罪ある者の身代わりの死を遂げられたのである。その時から、何かしら変化の兆し現れ始めていた。神殿の幕が裂けること、地が揺れ動くこと、墓が開いて聖徒たちのからだが生き返ることなどであった。実際にどのようなことが起こっていたのか、全貌は定かでない。けれども、イエスの死がそれで終わりではなく、何かの始まりである印が次々起こっていたのである。(51-53)
1、イエスの十字架の一番近くにいた百人隊長、そして彼といっしょにイエスの見張りをしていた人々は、激しく心を動かされていた。「この方はまことに神の子であった」とまで、真実な告白をしている。(54)ガリラヤからついて来た女たちの姿はあったものの、弟子たちの影は薄い。十字架につけられたままのイエスのからだは、そのままで安息日を迎えるのか、婦人たちは心配していたに違いなかった。(55-56) そうした時にアリマタヤのヨセフがピラトに願い出、彼がイエスのからだを取り降ろして、きれいな亜麻布に包んで、新しい墓に納めた。彼は自分のために用意した新しい墓を、主のために差し出していた。罪人の一人として処刑された主であったが、犯罪人の墓に投げ捨てられるのではなく、金持ちの墓に葬られた。ヨセフは既に、イエスの弟子になっていた。けれども、それを明かすのを恐れていた。しかし、その日、彼は一歩踏み出した。主イエスの死は、百人隊長やヨセフの心を動かした。ヨセフは、最早人の目を恐れることのない弟子に変えられた。そのヨセフに手を貸し、一緒に埋葬に携わったニコデモもいた。(57-61) イエスの死は、それで終わりではなく、何かの始まりを予感させていた。その予感とは別物であったが、ユダヤ人の指導者たちはイエスの言葉を思い出し、よみがえりのデマが広がらないよう、墓には番をして欲しいと頼んだ。そこでピラトは、石に封印をし、番兵をつけたのであった。(62-66)
2、イエスの亡骸の埋葬を見届けていたマグダラのマリヤたちは、安息日の明けるのを心待ちした。影の薄い男の弟子たちと同様、三日後のよみがえりなど、全く考えることなく、期待することもなく、もう一度丁寧に埋葬したいと、それだけを考え「週の初めの日の明け方」、墓へと向かった。その日、先ず起こったのは「大きな地震」であった。主の使いが、墓の石をわきに転がしたからである。番兵たちは、恐ろしさのあまり、ただ震えていた。御使いは女たちに、主イエスのよみがえりを告げ、空になった墓を見させ、弟子たちに告げるよう、そしてガリラヤでお会いできることを知らせるように命じた。(28:1-7)女たちは驚きと喜びが入り交じる思いで、弟子たちのところに向かい、その途中か、イエスに出会い、大喜びするのであった。目に見えるからだを持った主イエスが、彼女たちの前に現れ、耳で聞こえる声、「おはよう」と言われたその声を聞いたのである。(8-10)夢でも幻でもない、幽霊や錯覚でもない、からだを持ってよみがえられた主イエスが、目の前に現れておられた。大きな石も、また封印も、番兵も、イエスを墓に閉じ込めておくことはできなかった。主イエスご自身と、この主を信じる者にとって、死は終わりではない。イエスのよみがえりは、人を恐れと暗闇に閉じ込める死を、全く打ち破るものであり、新しいいのちに生きる道を開くものである。主イエスご自身、死からよみがえって、今も生きて働いておられるからである。
3、ところで、イエス・キリストの「復活」ほど、世の人々を悩ませるテーマは他にはないであろう。それこそ「不思議の中の不思議」、「奇跡の中の奇跡」である。しかし、果たしてそんなに信じがたい事柄なのか。多くの人が証拠を見せて欲しいと迫るものの、聖書には確かな証拠さえ示されている。聖書が告げること、祭司長たちの慌てぶり、その対応策、これらはイエスのよみがえり、死からの復活が確かな事実、紛れもない真実であることを示している。多額の金を支払ってまで、事実を曲げざるを得なかったのは何か。「夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んでいった。」こんな見え透いた嘘は、かえってことの真相を言い得ている。(11-15) ローマ兵士たちの有能さを持ってすれば、盗まれたなら、直ちに取り戻せる事柄である。弟子たちの力は、ほんのちっぽけで、そんな大それたことは、全く考えもしてなかった。御使いの出現や空の墓、そして何より、イエスご自身が約束された通りによみがえられたこと、これらは、よみがえりが事実であることの証拠として、聖書が提示している事柄なのである。使徒パウロは、復活の主イエスにお会いした者が大勢いること、そして自分にも現れて下さったと語っている。今も生きて働いておられる主イエスは、私たちにも現れ、語りかけて下さっている。私たちも、復活の主イエス・キリストにお会いする不思議を、確かに経験させていただいているのである。(コリント第一15:1以下)
<結び> 私たちが毎年イースターを迎えて祝うこと、そして、日曜日毎、「週の初めの日」に礼拝をささげ続けていることは、実に最初に、主イエスがよみがえられた事実があったことによっている。もしイエスの復活がなかったら、弟子たちがもう一度集まり、立ち上がることなど有り得なかった。彼らは絶望し、憔悴しきっていた。しかし、よみがえったイエスにお会いして、新たな希望を見出し、光に照らされて歩み始めたのである。今日の私たちも同様である。復活のキリスト、死からよみがえられた主イエスを信じない限り、私たち人間は闇の中に沈むだけである。人生に光りを見出すことなど、誰一人できないことである。よみがえりの主を信じる者だけが、まことのいのちに生きることができる。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネ11:25-26) 主イエスは、このように私たちにも問うておられる。一人一人、自分の答、応答を明確にして、よみがえられた主イエスを救い主と信じる、その信仰を堅くしていただこうではないか。教会で週の初めの日を、主の日として尊ぶのは、このよみがえりの主イエスと共に歩むからに他ならず、この礼拝に集うことにより、私たちは力を、そして光を、また慰めをいただくのである。この主イエスと共に歩む日々の幸いを感謝して、この週も歩ませていただきたい。 |
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