ゲッセマネで祈り終えた主イエスは、祭司長や民の長老たちから差し向けられた群衆に取り巻かれ、捕らえられ大祭司のところに連れて行かれた。夜通しの議会の裁判で、神への冒涜の罪状により死刑を宣告された。「あなたは神の子キリストなのか」との問に、「あなたの言うとおりです」と答えられたからである。この答を「神をけがすことば」と、ユダヤ人の指導者たちは決めつけた。そして夜が明けて、イエスは総督ピラトのもとに連れ出された。イエスを死刑にするには、ローマの官憲の力が必要であった。
1、マタイの福音書27章11節以下、ピラトの前に立たれた主イエスの姿が記されている。ピラトの問い掛けに、「何もお答えにならなかった」こと、また祭司長たちの訴えにも「一言もお答えにならなかった」、そのイエスの様子に、ピラトは「非常に驚いた。」(11〜14節)ユダヤ人たちの訴えが理不尽で、イエスを貶めようとしていることは、ピラトにもよく分かっていたからである。ピラトはイエスを釈放しようとしたが、思うようには行かず、困惑していたようである。(15〜19節)イエスを釈放するのか、それともバラバかと、提案はしたものの上手く行かず、群衆の叫びはますます激しくなった。そして「十字架につけろ」との叫び声の前に、ピラトは屈服した。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」ピラトは、総督としての自分の責任を自覚しつつ、それを放棄し、自分に不利益が降りかかるのは避けようと、そのように振る舞っていた。(20〜25節)結局、バラバを釈放し、イエスをむち打ってから、十字架につけるために引き渡してしまった。主イエスは口を開くことなく、屠り場に連れて行かれる小羊のように、事の次第を一身に受け止めておられたのである。(26節)
2、総督の兵士たちは、イエスを裸にし、代わりに緋色の上着を着せ、更には、いばらの冠をかぶらせ、右手には葦を持たせ、ひざまずいて、からかっていた。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」つばきをかけたり、頭をこづいたり、さんざんからかったあげく、もとの着物に着替えさせ、十字架につけるために連れ出した。(27〜31節)嘲りに耐えながら、ゴルゴダの丘への上り坂にさしかかり、十字架を背負った主イエスの足取りは重かったようである。通りがかりのクレネ人シモンが、イエスの十字架を無理矢理に背負わされることになった。(32節)そして遂に、イエスは十字架につけられ、その左右には二人の強盗が、同じように十字架につけられた。道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしっていた。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」人々は「もし、神の子なら・・・」と、イエスご自身が神の子と証言されたことを認めていた。祭司長たちも、口々に嘲って言った。「彼は他人は救ったが、自分は救えない。イスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら。いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」彼らは、主イエスが多くの人を救った事実を知っていた。その上で、嘲っていた。二人の強盗も、同じようにイエスをののしり、激しい言葉をあびせていた。主イエスはその嘲りやののしりを、ただじっと耐え抜かれるのである。(33〜43節)
3、主は、夜中の議会による裁判、明け方からのピラトの前での裁判、そして朝9時頃の十字架刑と、嘲りとののしりに呑み込まれるように、時を過ごしておられた。通常、人がそのような苦しみに遭うなら、何とかして反論しようと、懸命になるに違いない。いや!そうではない!本当はこうだ・・・!!けれども主は反論せず、抗弁もせず、十字架の上で苦しみを耐えられた。何のため、誰のためだったのか。罪人の罪を一身に負われ、神の裁きを決して割り引くことなく、神の怒りを受け止めておられた。十字架の上にこそ、罪人を救うために止まっておられた。もし人々の嘲りに応えるように、十字架から降りたなら、その時点で罪人の救いは頓挫する。ちょっとでも怒り、ほんの僅かでも、人々に何かを思い知らせようと思われたならば、その時点で、神の救いのご計画は破綻するのであった。主イエスが、ののしられても、ののしり返さず、じっと耐え、父なる神にご自分を委ねておられたのは、実に、弱さと愚かさの中に沈んでいた弟子たちのため、罪人のため、私たちのために他ならなかったのである。「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(ペテロ第一2:22-24)
<結び> 主イエスが、十字架で苦しみを受けられたのは、私たち一人一人の救いのため、私たちのたましいが救われ、今この地上にあっても、そして来たるべき世にあっても、完全な救いを得て安らぐためであった。この主イエスにお会いするまで、全ての人は、ただ「羊のようにさまよって」いる。それが人の現実である。私たちもその一人であった。今一度、自分のことを振り返って、どんなにか確かな救いに与っているか、感謝をもって十字架の主イエス・キリストを仰ぎ見ようではないか。また、ののしられても、ののしり返さなかった主イエスに、心から倣うことを導かれたいと思う。主が歩まれたその道は、私たちも「その足跡に従うようにと」、模範を残されたと、はっきり語られている。「あなたがたが召されたのは、実にそのためです」とも。
受難週とイースタを迎える度に、私たちは、主イエスの十字架を、そして十字架の死からの復活を感謝し、心を新たにさせらる。特に自分の生き方そのものが、主に倣うものとなることを、しっかり覚えたい。そして主イエスに倣って歩む者の証しが、力強く用いられること、主の教会が前進することを期待したいものである。主イエス・キリストの打ち傷のゆえに、いやされた私たち一人一人が罪を離れ、義のために生きること、このために私たちは、「たましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った」ことを、心から感謝して!
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