律法と聞くと、どうしても厳しいものだと思ってしまいがちである。しかし、神の律法は、神の裁きの厳しさと愛、そういった相反するように見えることが共存しているものでもあり、この「のがれの町」の記事は、まさに、神の裁きの厳しさと、神の愛を共に見ることができるものである。
1. 皆さんは、「いのちにはいのちを、目には目を、歯には歯を」と言う言葉をお聞きしたことがあるかと思う。律法にある言葉だが、いのちを奪った者は、いのちによってそれを償わなければならない、そのような厳しい裁きの意味を持っている言葉である。
加えて、ヨシュア記20章と民数記35章には、血の復讐をする者が出てきた。民数記35章19節では、『血の復讐をする者は、自分でその殺人者を殺してもよい。彼と出会ったときに、彼を殺してもよい。』とあり、律法の中には、いのちを奪われた人の近親者などが、いのちにはいのちとあるように、血の復讐として、その殺人者を殺してもよいと書かれている。つまり、律法の中で、復讐者の存在が許容されており、律法に照らせば、殺人者は、復讐されても何もいえない立場であった。
それでは、それが故意の殺人ではなく、過失、あやまって事故などを起こし、人を殺めてしまった場合はどうなのだろうか。
2. 今日お読みしたヨシュア記20章で、「のがれの町」を設定することを主が命じられているのは、そのためであった。故意ではなく、あやまって人を殺してしまった殺人者が、血の復讐をする者から逃れ、会衆の前での裁判を待つ場所、それが「のがれの町」であった。「のがれの町」に殺人者がいる限り、血の復讐をする者は、手を出すことができなかったのであり、またこの町は、殺人をした者たちの裁きを行う場所でもあった。もちろん、そこで故意による殺人か、故意ではない殺人かが会衆の前で裁かれ、その結果故意であるとされれば、血の復讐する者たちに引き渡されることになっていた。他方、故意でなかった場合は、いのちは守られるが、その町の大祭司が死ぬまで、「のがれの町」に留まっていなければならなかった。彼らは、その町に留まっている限りは、血の復讐をする者たちからは守られましたが、彼らがその町から一歩でも出てしまうなら、血の復讐者は、彼らのいのちを奪ってもよかったのである。
それでは、なぜ彼らは、大祭司が死ぬまで「のがれの町」を出ることができなかったのだろうか。なぜすぐに相続地に帰ることが許されなかったのだろうか。これは、故意ではないとはいえ、彼らが罪のない人の血を流してしまっていたためである。民数記35章33節、34節では、殺人が起き、血が流れると、その地が汚れる、贖いのためには、殺人者の血を流すことによる以外ない、とされ、主なる神が真ん中に宿る場所を汚してはならない、と言われている。聖書において、血はいのちをあらわしている。いのちにはいのちを、血には血を、ということである。復讐をする者がただの復讐者ではなく、血の復讐をする者、というように「血」がついているのもこのためであろう。
つまり、いのちが奪われないとしても、血が流れ、土地が汚れてしまっていたため、贖いは、その土地に血を流させた者の血による以外ない、と言われているのだから、その汚れた土地に対する責任を彼らが負っていた状態であったのであろう。加えて、いのちが守られるのは、あくまで「のがれの町」に留まっている時だけであり、彼らが、「のがれの町」を一歩でも出れば、血の贖いのために、血の復讐をする者は、彼らに手にかけることができた。
故意による殺人ではないので、「のがれの町」にいる限りは、いのちは取られないが、土地がきよめられない限りは、彼らは、帰ることが許されなかったのである。
ここでは、神の律法の厳しさと共に、故意ではない殺人を犯してしまった彼らに対して、「のがれの町」を作られた、神の愛ある配慮を見て取れる。その最たるものが、聖なる油注がれた大祭司の死によって、相続地に戻ることができるようになる、ということである。
本来、血による贖いは、土地に血を流させた者の血以外にはありえない。しかしこの厳しい律法の中で、大祭司の死による贖いという特例、特赦を神が用意してくださっているのである。
ここでは、大祭司のいのちが、故意ではない殺人を犯した者たちのいのちの代わりとなっているのであり、大祭司の死、大祭司の血によって、土地がきよめられ、彼らは、相続地に帰ることがはじめて許されているのである。言い換えれば、大祭司の死による身代わりによって、贖われ、彼らに罪の赦しがもたらされた、ということであり、彼らにとって、「のがれの町」の規定は救いそのものであった。そこに留まっている限りいのちが守られ、大祭司の死による贖いによって罪赦されるのだから。
結. 「のがれの町」の規定において、神の律法、裁きの厳しさと、神の愛の両方が存在していたことを見たが、神の裁きと神の愛、それを表す最たるものは、神の裁きを私たちの代わりに受けてくださったイエスキリストの十字架にみられる愛である。実際、この「のがれの町」の規定においても、大祭司の死による身代わりの贖い、罪の赦しが語られており、故意ではない殺人者にとって、「のがれの町」に逃れ、大祭司の死をもって、自らの罪が赦されたこと、それこそが救いであった。それは、私たちにとっては、イエス様の十字架の死と、罪の赦し、救いを指し示すものである。
つまり、この「のがれの町」の規定自体が、神の裁きの厳しさ、そして神の愛を表す、イエス様の十字架を、私たちに指し示すものなのである。「のがれの町」の規定が、イエス様を指し示すものであったこと、それは、私たちののがれる場所が、イエス様のもとであることをも示唆している。自分のような罪人のために十字架にかかって死に、救いの道を与えてくださったイエス様のもとこそが、自分ののがれの場所なのである。今日の召詞でも読まれた、マタイ11章28節から30節には、
すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。私があなたがたを休ませてあげよう。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。
とある。私たちは、何かしら、それぞれに重荷を持っている。しかし、その重荷を持っていく場所は、イエス様のもと以外にはありえない。
私たちが苦しむ時、悩む時、孤独にさいなまされる時、希望を失う時、ただただイエス様の十字架を見上げていきたい。イエス様こそが、私たちと共にいてくださり、十字架という、最大の恵みを与えてくださり、私たちの重荷を共に持ってくださる方なのだから。
受難週を迎えるにあたって、自分のために、十字架にかかってくださったイエス様を仰ぎ見て、自らの重荷をイエス様のところに持っていきつつ、イエス様が与えるくびきを負って歩んで生きたい。私たちのたましいの安らぎは、そこにあるのだから。
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