主の2013年、今年の教会の暦は3月24日から受難週、31日がイースターである。教会の暦で、「受難節:レント」または「四旬節」という時を迎えている。プロテスタント教会は、それほど教会歴に拘ることはないが、ローマカトリック教会などは、この時期、いつも以上に心を引き締めて過ごす、そんな季節である。私たちは、教会歴に余り縛られることなく歩みつつ、クリスマスとイースターを心に留め、そしてペンテコステを覚えている。今朝はイースターを待ち望みながら、主イエスの十字架への道を思い、ゲッセマネの祈りを、マタイの福音書によって心に刻みたい。
1、私たちの教会の2012年度を振り返ると、昨年4月8日にイースター礼拝をささげている。そのため、今年度はイースター礼拝を二度迎えることになり、2013年度はイースターがなくなる。けれども、それは大きな問題ではなく、私たちの信仰が、確かに主イエス・キリストの十字架と復活に根ざしているかどうか、そのことが問われている。主イエスは、十字架に架けられる前、最後の晩餐の席で多くの教えを語られた。聖餐式を定められたのはその時である。そして、いよいよ時が来たと、賛美の歌を歌ってから、一同でオリーブ山に向かわれた。弟子たちは、イエスご自身の緊迫した様子を察知はしたものの、何が起こるのか分からないままであった。ペテロを始め弟子たちはみな、主から「つまづき」を予告されても、そんなことはない、と言い張るのが精一杯であった。やがて「ゲッセマネ」に着いて、弟子たちに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」(36節)それは、ご自分が祈っている間、弟子たちにも、祈るように勧めておられたことである。「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と。(※ルカ22:40) それから、ペテロとヤコブとヨハネの三人を連れて行き、悲しみもだえ始められ、彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」(37〜38節)やはり「わたしといっしょに、目をさまして、祈っていなさい」と。弟子たちに祈りを勧め、ご自分と共に祈る、そのような弟子たちの祈りを求めておられたのである。
2、主は弟子たちの弱さを知っておられた。それでも彼らに、一緒に祈ることを要請されたのは、それだけ主イエスの苦悩が深かったためである。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」と言われた。その祈りは、「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と、悲痛な叫びであった。(39節)これまで主イエスは、「エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ」、そのように歩んで来られた。(ルカ9:51、53、18:31-33、19:29)エルサレムでの十字架の死を、真っ正面から受け止め、それに立ち向かっておられた。その十字架の苦しみをいよいよ前に、苦悩しておられたのである。その苦悩の激しさは、祈っても祈っても、その状況は受け入れ難く、「できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と、そう祈るほかない苦悩であった。父なる神の怒りを一身に受け止めるだけでなく、親しい交わりを断たれる苦悩である。その激しい苦しみの中にあって、「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」と、父なる神に、ご自分を任せること、みこころに委ねることを必死に祈っておられた。その同じ祈りを、三度繰り返された。マタイの福音書は、二度目の言葉も記し、三度目については、「もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた」と告げる。イエスご自身、激しく迫る緊迫感の中で、懸命に、父なる神のみこころに従い通したいと、心から願っておられたのである。
3、祈りの合間に、主は弟子たちのところに戻っておられる。ところがペテロたちは眠り込んでいた。「彼らは悲しみの果てに、眠り込んでしまった」のである。(ルカ22:45) 主イエスは彼らを起こし、励ましておられた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」(40〜41節)二度目に戻られた時は、彼らを置いて、三度目の祈りに向かわれ、その祈りの後、戻られた時は、「まだ眠っているのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました」と、最早動揺することなく、弟子たちを促された。(42〜46節)祈りによって心を注ぎ出したので、「みこころのとおり」に成ることを確信し、全き信頼へと進むことができたのである。この祈りがあって、十字架の上での身代わりの死、罪の贖いのための死が実現したのである。主イエスは、そのためにこそ、この世に来られ、罪を犯すことなく、地上の生涯を歩み抜かれた。心が激しく騒ぐ時は、全てを支配しておられる父に祈り、父なる神がその祈りを聞き入れ、力づけておられた。そのようにして主イエスは、ご自分の使命を果たし抜かれたのである。(ヘブル5:7-10)
<結び> このゲッセマネの祈りは、私たちに、私たちの救い、罪からの救いは、このイエスご自身の祈りがあって、確かに成ったことを教えている。主イエスが、それこそ、汗が血のしずくように地に落ちるまで、「苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた」、そのような祈りである。(ルカ22:44) 私たちは、全てをささげ切って下さった方、主イエスがおられるので、今救いの恵みに与っている。罪ある者をなお愛する、神の愛がそれを成し遂げさせて下さったのである。(ヨハネ第一4:9-10) イエスご自身が、もしご自分の思いを通そうとされたなら、果たしてどのようになっていたのか。もしその身代わりを逃れようとされたなら・・・。「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」そして「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりになさってください」と祈っておられた。父なる神の成さることは最善と、信じておられたのである。(※ハンナの祈り サムエル第一1:9-18)
主イエスの十字架を信じる私たちは、私たちの祈りも同じように導かれたいと、心から願わされる。また私たちの地上の生涯も、主イエスに倣って、どんなことにも、「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのとおりに、なさってください」と、心から祈って歩みたいものである。実際に思うようにならないこと、時には「どうして」、「なぜ」と思うことの多い日々かもしれない。それでも主イエスに倣い、また従い、神こそが私の主、私の救い主と、証しする日々を歩みたい。苦難を忍ばれた主イエスがおられること、その主を見上げて!(ペテロ第一2:21-25)
※東日本大震災から2年となる。神は全ての人に、どう生きるか、生き方を問うておられるのではないか。人のいのちは誰のものなのか。いのちより尊いものがあるのか、ないのか。よくよく考えてみなさい・・・と。今この時に至っても、まだお金や物に頼ろうとするのだろうか。物質的繁栄を求めるのだろうか。人にいのちがあり、心があるなら、その心が本当に満たされることを求めること、それこそが大切と、しっかり心に留めようではないか。
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