礼拝説教要旨(2013.03.03) 
神の永遠の聖定
(エペソ 1:3〜14)

 エペソ人への手紙はパウロの冒頭の挨拶に続いて、神の救いのご計画をほめたたえる賛美の言葉が語られる。「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。・・・」と。神がご自身の民を救いに入れて下さるのは、「世界の基の置かれる前から」のご計画によることで、「みこころによりご計画のままをみな行う」神がおられるので、私たち一人一人が、確実に福音を信じる信仰へと導かれていることを感謝している。父なる神がおられ、御子なるイエス・キリストがおられ、そして、確かに聖霊なる神が、生きて働いておられることを、感謝しつつ、全ては永遠から定められたこととほめたたえている。今この世で起こっていることは、決して偶然ではなく、神の壮大なご計画のもとに、全ての出来事が起こっているのである。

1、このエペソ1章で語られていることが、ウェストミンスター小教理問答、問7とその答である。「神の聖定とは、何ですか。」「神の聖定とは、神の御意志の熟慮による永遠の決意です。これによって神は、御自身の栄光のために、すべての出来事をあらかじめ定めておられるのです。」神が、起こり来る全ての出来事を、「あらかじめ定めておられる」としても、私たち人間には、その事実を理解するのははなはだ難しい。それがこの第7問答の課題である。しかし、聖書は、神の永遠のご計画として、神がそのことを決意し、決定しておられると明言している。(4、11節)またパウロは語っている。「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ローマ11:33-36)

2、「聖定」とは、「神の御計画そのもの」を指す。それは、それを行うかどうか、また実現するかどうか分からないままの、私たち人間が立てる「計画」とは違うものである。それが「神の御意志の熟慮による永遠の決意です」の意味することである。永遠において定められたこと、「永遠の聖定」なのである。人間が決意したことが、必ずしもその通りにならないのとは違い、神が永遠において定められたことは、必ず成る。寸分の違いもなく成る。「主のはかりごとはとこしえに立ち、御心の計画は代々に至る。」(詩篇33:11) 私たち人間は、もし神が、そのように一切の出来事を、「あらかじめ定めておられる」のなら、何故、人に幸不幸が押し寄せ、時に理不尽な悲惨に遭わねばならないのか、答の見つからない問を繰り返すことになる。私たち人間には、物事を自由に選択し、判断することが許されている。そして、悪に支配されもするが、断固として悪から遠ざかることもする。それさえも「あらかじめ定めれておられる」のか。そんなことはどうしても受け入れられない・・・と。けれども、「神の永遠の聖定」の理解においては、私たち人間が、どうしても受け入れられないと言い張っても、聖書は、神が「御自身の栄光のため、すべての出来事をあらかじめ定めておられる」と、私たちに教えているのである。

3、人類の歴史において、私たち人間の観点では、「たまたま」、または「偶然」と言うべき出来事は多々ある。人と人の出会いや、日々の経験の全ては、果たして神のご計画なのか、いや全くそれとは違うものなのか、考えれば考えるほど、私たちの頭の中は混乱る。しかし、主イエスの十字架の死について、聖書は次のように記している。「あなたがたは、神の定めた計画と予知とによって引き渡された方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。」(使徒2:23-24) 主イエスは、「不法な者の手によって」確かに亡き者とされた。けれども、それら全ては神のご計画の中にあった。私たち人間の目に、どんなに不思議に見えても、神が定められたことは、必ず成る。(詩篇118:22-23、マタイ21:42、使徒4:11)その定めの中でも、救いに関する永遠のご計画は、時至って、必ず実現するものなのである。(9〜10節)使徒パウロは、その救いの確かさをほめたたえた。自分が救い主に出会い、信仰に導かれたのは、実に神のご計画とその選びによることを、心から感謝せずにはいられなかったからである。神のご計画なしに、神に本当の意味で出会うことはなく、神が全てを定めて下さっていたことが嬉しかった。これは私たちが信仰に導かれ、イエス・キリストを信じて、救いの確信を得ることに当てはまる。私たちにとっても、ただ感謝する他にない、大きな喜びの出来事なのである。

<結び> 神の永遠の聖定が、「神の御意志の熟慮による永遠の決意です」という点において、神が「三位一体の神」であられることは、特別な意味がある。「聖定」を「創造」のみ業において実行される時、特に人間を造る時、次のように神は言われた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」三位一体の神だからこそ、そのように意図され、熟慮され、その上で人をお造りになった。私たち人間にとって、神の永遠の聖定によってこの世界が造られ、また治められているので、今この世界が保たれているのである。もし、そうでなく、全てが偶然に支配されているなら、私たちは恐るべき闇の中にいることになる。現在はもちろん、将来など考えられない恐れの中に閉じ込められる。神は、夕となり、必ず朝となる、この世界を造り、これを治めておられる。神がおられ、この神が全てを支配しておられることを、改めて心に留めることが導かれるように祈りたい。