礼拝説教要旨(2013.02.24) 
聖書の神は三位一体の神
(ヨハネ 14:25〜26)

 ウェストミンスター小教理問答は、問5で「ひとりより多くの神々がいますか」と問い、その答は、「ただひとりしかおられません。生きた、まこと神です」であった。旧新約聖書が、一貫して「唯一の神がおられ、その神は生きておられる」ことを明らかにしているからである。そして問6は、「その神には、いくつの位格がありますか」、答「神には、三つの位格があります。御父と、御子と、聖霊です。この三位は、実体が同じで力と栄光において等しい、ひとりの神です」と続く。いかにも教理問答らしい・・・、そんな印象の問と答である。けれども、ここに至る、「聖書」と「神」に関する理解こそ、私たちの信仰の根幹である。聖書によってのみ、私たちは、神を正しく知ることができるからである。※聖書なしに人が神を求める時、どのようなことになるか、この日本の社会を見渡せば、その事実は明白である。

1、ところで聖書は、神の存在について、また神の本質など、神がどのような方であるかを細かく説明をするわけではない。ただひとりの神がおられることを主張し、確かに生きて働いておられることを記している。そして「三位一体」についても、聖書が「三位一体」という言葉で、神について語っているわけではない。「父」である神がおられ、「子」も神であること、そして「聖霊」も神であり、「父」「子」「聖霊」は、三つの別々の存在でありつつ、ただひとりの神がおられると告げる。「三つの位格(Three Persons)」という表現が、私たちの理解を難しくしている。(※「人格」と言うところは「神格」と言い換えても良いと思われるが、「位格」と訳したからであろうか。)神が三つの「位」を持ち、しかし、それらは上下の関係も、優劣の関係もなく、同格の存在として、それぞれ生きて働かれるのが聖書の神、三位一体の神なのである。「実体が同じで力と栄光において等しい、ひとりの神です。」私たち人間の考えでは、常に上下関係や優劣、また前後のことが重要視される。けれども三位一体の神において各位格は、実体が同じであること、そして力と栄光において等しいこと、この理解が肝心なことである。

2、私たちは、この三位一体の神を信じ、この方にお従いする。その時、この神を完全に知り、また理解して信じるのであろうか。私たちは理解できたので、それで信じたのであろうか。答は「否」である。恐らく、今後とも誰も理解できないのが、「三位一体の神」についてに違いない。それ故に、この神を信じることこそが、私たちの信仰の中心と言える。「無限、永遠、不変の霊である神」を、私たち有限な人間が、完全に理解できることは有り得ない。神は聖書を通して、ご自分がどのような神であるかを示し、私たちがそのことを受け入れるのを待っておられる。特に主イエスが語られた言葉に、その思いが込められているのである。「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」主イエスは、「父」と「わたし」がどのような関係であるか、そして「聖霊」がどのように遣わされ、何をするのかを分かっておられた。「父なる神」と「御子なる神」、そして「聖霊なる神」が確かに存在し、働きに違いのあることを知っておられた。私たちは、主イエスが理解しておられたように、神を理解し、信じるよう導かれているので、そのように信じるのである。これが確かな信仰、聖霊によって導かれる信仰である。(ヨハネ14:16-17、1:18)

3、教会の歴史において、異端と呼ばれるものはみな、この三位一体の神を否定することによって生じている。初代教会における偽教師たち(ヨハネ第一2:22-24、4:3)、今日のエホバの証人やモルモン教など、みな肝心な所で三位一体の神を否定する。その罠に陥るのは、私たち人間の理性により、無理矢理に神を理解し、定義付けを試みるからである。より理解し易いように、より分かり易いようにと。大事なことは、聖書が説く通りに、私たちが信じることである。そして、三位一体の神を信じる助けとなるのは、神の統一性と多様性、或いは一体性と複雑性という理解である。神は唯一である。しかし、三つの多様な形で生きて働かれる。そこにこそ、神の完全さが凝縮されている。神は愛であると言う時、父は子を愛し、子は父を愛することにおいて、神の愛は父と子の間の交わりの中で生きて働いている。それは子と聖霊の間においても、同じように働いていることである。神はただお一人で、自律し、自存し、満ち足りておられる完全なお方、三位一体であるからこその神である。更には、この世界の有り様の隅々にまで、神の統一性と多様性は及んでいることに気づかされる。例えば、地のあらゆる生き物を「種類にしたがって」造られたことは、正しく三位一体の神の御業、そのものなのである。(創世記1章)

<結び> ただひとりの、生きた、まことの神が、天と地を創造された。全ての造られた物の冠のように、神は人をお造りになった。その時、人は神のかたちに似せて造られ、神との幸いな交わりの中に生かされ、何不自由なく過ごしていた。しかし、人は神に背き、罪に堕ち、神との幸いな交わりを断たれた。全人類の罪と悲惨は、全てこの神への背きから発している。けれども、神に背を向けたその人間に対して、神に立ち返る道を、神ご自身が備え、そのために、ひとり子なる神を遣わされたのである。神の御子イエス・キリストが十字架で死なれたのは、神がご自身の救いのご計画を成し遂げるため、避けることのできない、罪の代償の支払いそのものであった。主イエスが十字架の死からよみがえって後、天に昇り、神の右の座に着かれてから、次に遣わされたのが聖霊である。この聖霊は、イエスをキリストと信じる者に注がれ、その人を神の子、またキリストの弟子として生かす、神からの力の源として働いている。三位一体の神は、実に今日も、片時も休まずに働き続けておられることになる。

 私たちはそのような完全な神、全き力の神、栄光に満ちた神に見守られ、支えられて今があるのである。私たちが洗礼を受ける時、「父と子と聖霊の御名によって」洗礼を授けられる。主イエスがそのように命じられ、教会はその命令に従って歩んでいるからである。これからも、決して迷うことなく、父なる神を信じ、御子の十字架を仰ぎ、聖霊が私たちを導いて下さることを信じて歩み続けたい。三位一体の神が、私たちと共にいて守り、導いて下さると心から信じて!!