今日の箇所は、マナセ族がくじによる割り当てによって得た土地についてと、ヨセフ族、すなわちマナセ族とエフライム族が共にきて、人数が多くなったので、新たな土地を相続地として与えて欲しいと、ヨシュアに不満を訴えている所である。今は14節から18節を中心に見ていきたい。
1.ヨセフ族は、マナセとエフライムを合わせているので、民の数はある程度多かったようだが、他の部族と比較すると、ユダに次ぐ広大な土地が割り当てされていた。彼らはなぜこのような願いをしたのだろうか。それは、彼らに割り当てされた土地が、カナン北部を中心とする広大な土地でありながら、森が広がる山地、丘陵地帯が中心で、あまり住む場所がなく、住みにくい土地であったからである。だからこそ彼らは14節の「あなたはなぜ、私にただ一つのくじによる相続地、ただ一つの割り当て地しか分けてくださらなかったのですか。」とヨシュアに訴えたのである。この14節で注目すべきポイントは「ただ一つのくじ、ただ一つの相続地」という言葉である。しかし実際、くじも相続地も、一つではなかった。おそらく彼らが「ただ一つのくじ」と言ったのは、与えられた土地が、山地で住める場所があまりなく、狭く、小さいので、自分たちの望みどおりでなかったという思いが、ここで「ただ一つの」と言わせてしまったのだと考えられる。これに対するヨシュアの返答は、まだ住むための場所があるではないか。異邦人を追い出し、森を切り開け、というものであった。しかし、ここでヨセフ族の返答は、驚くべきものがある。それは森の広がる山地では、自分たちにとって住む場所が十分ではなく、それに山と山の間、谷や谷間に住むカナン人たちは、強力な鉄の戦車を所有しているというものであった。ヨセフ族は、山地は自分たちに十分ではないと、異邦人の住む森を戦って切り開くことを嫌がり、それに谷間に住むカナン人の強力な鉄の戦車があると言って、戦いに出ようとしないのである。彼らが、このように語るのもすべて、自分たちの願う、住みやすい新たな相続地を得ようとしていたためであり、実に安全で、楽な方向へと行こうとしているように見える。しかしヨシュアは、そんなヨセフ族に、18節で、森が広がる山地であっても、そこにいる異邦人を追い出し、最後まで切り開いて住めるようにしなさい。そして鉄の戦車を持っていて強いからこそ追い払いなさいと厳命している。
2.森を切り開き、異邦人たちを追い出せば、住みやすくなるのに、そこに向かわずに、楽で、安全な方、新たな住みやすい土地を求めてしまったヨセフ族、彼らの抱えていた問題の本質は二つある。第一に、「自分の望みどおりではなかったので、主が与えてくださった土地を、狭く小さいものとしてしまったこと。」である。17節にあるヨシュアの言葉「ただ一つのくじによる割り当て地だけを持っていてはならない」と言う言葉は、文字通りに捉えるべきではない。森を切り開けといっているヨシュアが、相続地を増し加える発言をするのは矛盾している。この言葉を直訳すると「あなたのうちで、ただ一つのくじが生じてはならない。」となる。また、「ただ一つのくじ」とは、14節で先ほど見た「ただ一つのくじ」と同様の言葉であり、与えられた地が山地だったため、住む場所があまりなく、自分たちの望み通りではなかったので「狭く、小さい」という思いが込められていた。つまり、この「ただ一つのくじ」という言葉は、ヨセフ族が、自分たちの望み通りでなかったので、主が与えてくださった地を、狭く、小さい地だと考えてしまっていたことを表しているのである。これらをあわせると、『主が与えた土地に対して狭い、小さい、望みどおりのものではないという思いを、あなたのうちで起こしてはならない。』という意味になるのではないか。
あくまで、ヨセフ族の心にむけて、「あなたの内で、ただ一つのくじ、主が与えた土地を望みどおりのものではないとして、狭く小さくしてはならない」と言っているのである。もし、彼らの内に、主が最善を与え、自分たちを祝福してくださっていると言う主への確かな信頼があったのなら、彼らは、「ただ一つのくじ」を抱かず、与えられている土地が最善のものであることを信じて、そのために進んで異邦人を追い払い、森を切り開き、広大な土地、それも豊かな土地を得ることが出来たのではなかったか。
第二に、『自分たちの力に頼っていたこと。』である。彼らの、楽で安全な道を通りたいという思いは、自分たちの力で行わなければならないと考えているからこそ出てくる発想ではないか。実際、今までも見てきたように、カナンにおける相続地を得て行く戦いは、すべて主が戦われ、勝利をもたらしてくださった戦いである。むしろ彼らが、自分たちの力で何とかしようと試みているからこそ、楽で安全な道を通ろうとしてしまうのである。また、13節を見ると、彼らは、鉄の戦車をもつカナン人たちにすぐには戦いをしかけず、自分たちが強くなって、勝てることがわかってから戦いを起こしている。神に頼らず、自分たちの目に困難だと思うことを避け、安全だと思えるようになった時に彼らは戦いを起こしているのである。しかも、勝利の後、カナン人に苦役を課して、主の絶対的な命令、聖絶をしなかった。これは彼らが、自分たちの力に頼り、判断し、自分たちの望むとおりにしてしまったことを指している。
主が与えた土地を、望みどおりではないからといって、小さくしてしまうこと、また、自分の力で事を成そうとすること、この二つの問題点に共通することは、「主への信頼の欠如と自分を優先すること」である。主を信頼できていないから、主が最善の土地を与えてくださっていると思えずに、「ただ一つのくじ」を抱き、主を信頼せず、自分の力に頼っているから、自分たちの判断を優先し、困難を避け、自分たちにとって楽で、安全な道を通り、主の命令に背いて、自分たちの思い通りにしてしまったのである。
結.私たちの相続地は天国であり、その天国における完成を目指し歩む中、私たちには、罪との戦いが日々ある。その時、私たちは、自分の力に頼り、自分の願いどおりに歩みたいという欲求と日々戦っていかなければならない。しかし、そういった道は、自分の目に楽で、安全であっても、主への信頼より、自分が優先されているので、決して罪との戦いには勝てる道ではないことを覚えたい。他方、主に信頼しきることの難しさも覚える。しかし、私たちはただまっすぐに神に信頼し、安全な道ではなく、最も困難な道を歩まれた方を、自分の望みではなく、神の御心がなるようにと祈られた方を知っている。ゲツセマネでの主イエスの祈りの記事を覚えたいものである。主イエスがどのような思いで祈られたか、どのような思いで十字架にかかられたか、私たちには計り知れないが、それらを思うとき、私たちは、十字架が、私たちの罪のため、私たちの救いのためであったことを忘れてはならない。
私たちが今歩いている、天国へと続く道には、それぞれに使命があり、罪との戦いもある。しかし、この道は、主イエスキリストが苦しみ、十字架によって、備えてくださった道、主イエスが最も避けたいと願った父なる神からの裁き、十字架をその身に受け、血を流し、備えてくださった道なのである。主が備えてくださった救い、天国を、自分の思いで、「ただ一つのくじ」としてしまうこと、小さいものとしてしまうことは、なんとも悲しいことである。またそこを避けて、楽に見える道に行ってしまうことは、主の備えをないがしろにしてしまうことになってしまう。私たちは、何を臆すことがあろうか。何が足りないと言えるのか。わたしたちはすでに有り余るものを受けているのだから。
『しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。』 (2コリント12:9、10)
私たちは、弱さを覚えるものたちである。しかし、主イエスが、恵みが十分だと、私たちの弱さの内に現れてくださるとおっしゃってくださっている。困難があろうとも、弱さを覚えようとも、ただただ、主イエスの十字架の道を歩むものでありたいものである。
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