礼拝説教要旨(2013.02.10) 
ただひとり、生きた、まことの神
(申命記 6:4〜9)

 「神は霊であられ、その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変のかたです。」聖書が教えている、生ける真の神は、「無限、永遠、不変の霊である」というのが、小教理問答の第4問答である。ではその神は、果たして何人おられるのか、その問に対する答が次に続く。問5「ひとりより多くの神々がいますか。」答「ただひとりしかおられません。生きた、まことの神です。」聖書は、天地を造られた神がおられることをはっきりと示しつつ、その神は「ただひとり」であり、「生きた、まことの神」であると、繰り返し告げる。多くの人が神として仰ぐ「神々」は、死んだもの、偽りのもの、いのちのないものとして、それらを退けるのである。

1、この日本において、しばしばキリスト教を非難する、次のような言葉を耳にする。「『一神教』は好戦的であるが、他方、『多神教』は友好的である」と。唯一の神を信じる限り、他の神々を認めず「排他的」になるのに対して、多くの神々を認める社会は「寛容」である、と言うのである。果たして本当であろうか。何となく的をついているようでいて、その実、決して真実ではないことは明らかである。「一神教」であろうと、「多神教」であろうと、人間が何者で、どのような存在であるかを抜きに、他を貶める主張には無理がある。それよりはやはり、生きた、本当の神がおられるかどうか、その神を心から信じるのかどうか、その一点を、私たち人間は、最高にして最大の課題として、生涯追い求めるべきと心したい。事実、神を信じないと言い張る人々が、ことある毎に祈ろうとし、また地上の生活を終えても、なお自分の存在の続くのを、ごく自然に願っている。もし祈るなら、祈りを聞かれるまことの神に祈り、肉体の死後にもいのちを願うなら、そのことをはっきりと告げる、聖書にこそ聞くべきと、そのように痛感させられる。

2、「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(4〜5節)神の民イスラエルの中でも、特に敬虔な人々は、一日に二度、この言葉を唱え、自分たちの信仰を養い、また子どもたちの信仰を養ったと言われている。ただひとりの神を愛し、その神に心から仕えて生きようとしたのである。人々は、神が生きておられること、自分と直接関わって下さる方と、心から信じていた。ところが、そのように信じていても、人間の側は、どこまでも移ろい易く、すぐに神を忘れてしまう、そのような愚かさと弱さに包まれている。だから、この言葉を繰り返し唱えて、また教え込んで、神から離れないように、目を逸らすことのないようにと、細心の注意を払ったのである。そして神ご自身、そのような人の弱さをご存知の上で、繰り返し繰り返し人を遣わし、語り掛け、呼び掛けておられたのである。(出エジプト20:3、イザヤ37:16、20、42:8、44:6、T列王8:60、Tコリント8:5-6、Tテモテ2:5)無限にして、永遠、不変の霊である神は、全知にして全能なる、完全なお方である。その神が「ただひとり」であることを、神の民は、はっきり信じるようにと導かれていた。

3、「生きた、まことの神」とは、人が次々に生み出す神々と比べると、一目瞭然である。人が造り出す神々の多くは、いわゆる刻んだ像を神とするものである。その神々に果たして、いのちがあるのか。エレミヤ書の10章で、神が民に語っておられるのは、異邦人が様々な神を造り、それらを恐れ、拝したとしても、「国々の民のならわしはむなしいからだ。それは、林から切り出された木、木工が、なたで造った物にすぎない。」(3節)「それは銀と金で飾られ、釘や、槌で、動かないように打ちつけられる。ものも言えず、歩けないので、いちいち運んでやらなければならない。そんな物を恐れるな。わざわいも幸いも下せないからだ。」(4〜5節)そのものズバリ、恐れるべきは、生きた、まことの神のみであると。「・・・しかし、主はまことの神、生ける神、とこしえの王。その怒りに地は震え、その憤りに国々は耐えられない。」(6〜10節)人が造った神々、特に刻んだ像には、いのちはないことを知るべきである。どんなに人が精魂詰めて造っても、それが動くことはない。あくまでも「人の手のわざ」で、これに信頼するのは、人に信頼するに等しいことである。ただひとり、生きた、まことの神にこそ頼ること、それに勝る慰めはない。(詩篇115:2-8、135:15-18、イザヤ40:18-20、44:9-20)

<結び> ただひとりの、生きた、まことの神は、天から地を見おろし、人の幸不幸をただ見ておられるわけではない。多くの人が、神がおられるなら、何故・・・?と、災いに遭うたびに叫ぶ。しかし、私たち人間が神に背いている事実を、認めなければならない。神ご自身は、一貫して私たち人間に、本来あるべき姿に立ち返るよう、その道を備え、招いておられるのである。全ての人が、生まれながらに善いものを与えられている。けれども同時に、善いものだけでなく、どうしようもない悪を持ち合わせている。しかも、自分ではその悪を制御しきれない事実がある。それが私たち人間の本当の姿である。そのような私たちに、神は、救い主イエス・キリストを遣わして下さったのである。十字架に架かって、私たちの罪の身代わりとして死なれた方、その救い主を信じる時、私たちは神に立ち返って、神との交わりの中に迎えられる。人が人として、本来あるべき幸いの中に、立ち返ることになる。その最高の幸いは、この地上で味わうだけでなく、天の御国で永遠に味わわせていただくことになる。無限、永遠、不変の霊である神と、私たちは永遠の交わりが約束されているのであって、私たちは、この世にあって、何者をも恐れない、そんな平安が与えられる。これこそ、ただひとりの、生きた、まことの神を信じる私たちの幸いなのである。感謝をもって、この地上の日々を歩ませていただきたい。

 明日、2月11日は、私たちが「信教の自由を守る日」として覚え続けている、特別な日である。私自身にとって、生きた、まことの神だけを信じるのか、それとも、この国で生きる者として、この世と調子を合わせるのか、重大な決意を、いつも新たにさせられる特別な日である。ここ数年、この国の状況には「不穏さ」を感じている。キリストを信じる者であるよりも、日本人であることを優先させる、古い考え方がじわじわ広がっていると思うからである。その不穏さは、一層増しているようである。人を恐れず、ただひとり、生きておられる、まことの神を信じる信仰に立つことを、何があっても選び取れるようにと、心から願い、教会が堅く立つことを祈り求めたい。