礼拝説教要旨(2013.02.03) 
神はどのようなお方か
(ヨハネ 4:24、ヤコブ1:17)

 問答3によって、聖書は、「人が神について何を信じなければならないか、また神は人にどんな義務を求めておられるか」を、おもに教えていると先回学んだ。その教えは突き詰めると、神がおられることを信じ、その神が遣わされたイエス・キリストを救い主と信じること、そして永遠のいのちをいただいて生きること、それこそが、神が私たちに望んでおられることと心に刻んだ。その一番の主題を踏まえた上で、続く問4は、「神とは、どのようなおかたですか」と問い、「神は霊であられ、その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変のかたです」と答える。聖書が教えている「神は霊であられ」ること、その神は、「無限、永遠、不変のかたです」と。生ける真の神は、「無限、永遠、不変の霊である」とは、人知では、到底測り知ることのできないお方ということである。

1、「神は霊です」と明言されたのは、主イエスご自身である。また使徒パウロは、「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と本性」と語って、神の本性は、人の目には見えないことを告げている。(ローマ1:20)私たちを含めて、人は「霊」について、実にあれこれ、いろいろな考えを持っている。目に見えない霊的なものの存在を、当たり前のように認めているのが、この日本の社会である。他方聖書は、御使いを「霊的なもの」として認めているが、木々や草花など、造られた物に「霊が宿る」とは考えない。造り主と造られた物との区別を、明確にしている。主イエスが「神は霊です」と言われた時、神は、造られた物とは全く別なお方、特に人間とは別の存在、目には見えないお方であることを、特に強調しておられた。また、この「霊です」の意味を分かろうとすればするほど、私たち人間は、自らの有限さを知らされることになる。何故なら、神は「無限、永遠、不変のかた」、「霊」だからである。神は人間を遙かに超えた、測り知ることのできないお方であることを、聖書は私たち示しているのであって、人間を超越したお方として、神がおられるのである。

2、「無限、永遠、不変の霊である神」がおられること、それを聖書は、世々に渡って私たち人間に語り続けている。すなわち、有限な人間とは違って、「無限」の方、この地上でほんの一時生きる人間とは違う、「永遠」の方、そして、すぐにも気の変わる、移ろいやすい人間とは全く違う、決して変わらない「不変」の方、正しく全知にして全能なる神がおられることを、聖書は私たちに説き続けている。その神が、どのような点で人間と違っているのか、どのような性質において無限で、永遠で、不変なのか、それは「その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において」である。存在について、「わたしは、『わたしはある』という者である」と、神はモーセに告げておられた。(出エジプト3:14)その知恵は測りがたく、(詩篇147:5)力も聖さも、義しさも善なるご性質においても、そして真実においても、人間は全く遠く隔たった存在である。神だけが永遠から永遠に至る、不変の存在である。私たち人間の知恵は、この世界のほんの一部を知り得るのみ・・・。私たちの力は、必ず弱り衰え、聖さどころか内なる思いは汚れに染まっている。善を成そうとして悪に誘われ、真実であろうとしても、上辺を装う嘘偽りに押し流されてしまう、そんな不確かなのが私たち人間である。(黙示録4:8、15:4、出エジプト34:6-7、ヨブ11:7-9)

3、神は霊であるが、神のかたちに似せて造られた人間は、霊ではなく、肉体を持つものとして生かされている。肉の体に、神が与えて下さったいのちを宿している、それが人間である。有限で、一時的で、変わる存在であるが、「霊とまことによって」神を礼拝することができるように、造られている。目に見えない神を、人格的に拝し、自分自身をささげる礼拝者となるよう招かれている。霊である神だけが「完全」なお方、全てを知り、全てのことを成し得る方、全く聖にして、全く義しく、善だけを成し遂げ、真実のみを貫かれる。このような神がおられることは、神に背いた後の私たち人間には、考えも及ばず、ただ神の側から近づいて下さることがなければ、私たちは、どうすることもできない。霊である神のかたちに似せて造られていることにこそ、道が開かれている。霊である神の、その存在、知恵、力、聖、義、善、真実に習う者として造られているからである。

 人間が知識を増し加え思い巡らすこと、喜びや悲しみを感じること、自らの意志を働かせて考え行動すること、それらは神に似せて造られ、生かされている人間の大いなる特権である。人が人格を持つ豊かな存在であるのは、神が人格を持つ、最高にして完全なお方であることに由来している。その神が、御子を救い主として遣わし、神と人との交わりを回復させ、人が真実な礼拝者となるよう招いておられるのである。私たちが、なお深く神を知ることは、なお深く人間を知ることに繋がっている。いよいよ聖書を通して神を知ることによって、私たち自身を知ることになり、弁えることになると、感謝をもって覚えたいのである。

<結び> 「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」この主イエスの言葉は、単刀直入な教えである。よく分かったと納得する時もあれば、後になって???となる時がある。神を肉の目で見ることができないこと、そのことが大いに関係しているように思う。すなわち、礼拝する者が、霊なる神の前に立ち、その神が心を見ておられることを、どれだけ弁えているか、そのことが肝心ということである。目に見える像を退けておられるのは、そのためである。また供え物の動物を退けるのも同じである。騒がしい音楽も、きらびやかな装束も・・・。神は神の前に出る私たちの心をご覧になる。カインとアベルは、それぞれ供え物を携えていた。供え物の善し悪しではなく、二人の心を神は見ておられた。光を造られた神は、全てを明るみに晒すことがおできになり、御旨に叶う者には相応しく報いられ、一点の曇りもないお方として、この世界を治めておられる。(ヤコブ1:17)この完全な神を信じることこそ、不確かなこの世を生きる上での、最も確かな拠り所と、その信仰に立つことを、しっかり受け止めたいものである。