礼拝説教要旨(2013.01.27) 
聖書は何を教えているのか
(テモテ第二 1:1〜14)

 問1「人のおもな目的は、何ですか。」答「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」そして問2は、「神は私たちに神の栄光をあらわし神を喜ぶ道を教えるため、どんな基準を授けていてくださいますか。」答「旧新約聖書にある神の御言葉だけが、私たちに神の栄光をあらわし神を喜ぶ道を教える、ただ一つの基準です。」このようにウェストミンスター小教理問答は続く。問3「聖書は、おもに何を教えていますか。」答「聖書がおもに教えている事は、人が神について何を信じなければならないか、また神は人にどんな義務を求めておられるか、ということです。」と展開する。天地を造り、人をご自身のかたちに似せて造られた神は、その人に、神について何を信じて、どのように神に従うのか、その唯一の基準として、「聖書」を授けておられるのである。

1、旧約聖書39巻と新約聖書27巻、合計66巻を神の霊感による「聖書」として、世界の諸教会がこれを「正典」としている。この「聖書」が、人に「神について何を信じなければならないか。また神は人にどんな義務を求めておられるか」を教えている。この第3問は、「おもに何を教えていますか」と問う。聖書には大切な教えが記され、人が知るべき多くの戒めが満ちている。けれども、この世界の一切の事柄が記されているわけではない。人類の歴史、また科学に関することについて等々、詳細に記されているのではない。聖書が記す肝心なこと、一番の中心は、「人が神について何を信じなければならないか」と、「神は人にどんな義務を求めておられるか」、この二点である。もし聖書なしに人が生きるとすると、それは行き当たりばったりの人生となる。人を造られた神だけが、人には何が必要で、何が不必要か、何を信じ、何を成すべきか、人がどのように生きたらよいのか、その全てを知っておられ、それらを聖書を通して、人に知らせておられるからである。

2、「聖書」なしに生きる人々が、どのように神を求め、また神を見出そうとしているのか、それはこの日本社会を見渡すと、一目瞭然ではないだろうか。一年の内で、特にこの一月にいろいろな様子が明らかになる。初詣に始まって、人々の神頼みのしきたりが次々と報道される。家内安全、商売繁盛、無病息災、必勝、合格、安産、厄よけ・・・もう何でもかんでもである。藁でもすがれるものにはすがろうとする様が、至極当然のことと伝えられている。全ての人に、神を求める心があり、祈り心のあることが明白でありながら、ただ自分で自分を落ち着かせようとするだけの、そんな拠り所のなさが感じられる。何故なら、祈っている人自身が、ほとんど神の存在を信じないまま、年中行事として、そして単なる習俗として、それをしているからである。しかし、聖書は、真の神がこの世界を造られたこと、その神に、人が心から聞き従うよう願っておられると教えている。人が神の前に背いて、交わりが壊れてしまった後は、その交わりの回復の道を備え、神に立ち返るよう招き続けておられる。神の御子イエス・キリストが遣わされたのは、その交わりの回復のためであった。聖書の中心主題は、突き詰めると、イエスを神の子キリストと信じて、神との幸いな交わりに立ち返るよう、神が人に語り、教えていることに行き着くのである。(テモテ第二3:14-15)

3、この問答3は、人が神について信ずべきこと、すなわち「真理」そのものと、神に対して人が果たすべき義務、すなわち「敬虔な生活」そのものを、聖書は教えていると要約することもできる。けれども多くの人が、聖書は難しい、一人で読んでいてもよく分からない・・・と言う。恐らくそれは、ただ漫然と聖書を読む時に陥ることであろう。聖書は、神の霊感によるもので、誤りのない神の言葉であると言う時、その聖書は、実に明瞭な言葉で記されていて、大人でも子どもでも、誰でもが読める言葉で記されているのは驚くべきことである。もちろん研究すべきことがあり、解明されるべきことが残されているとしても、また教える人が必要であっても、誰でも、聖書を開いて、その教えを聞くなら、聖霊がその人を導き、その人の心を開いて真理を悟らせて下さる。そして、聖霊は、その真理に従う生き方、神を喜ぶ敬虔な歩みへと、その人を導いてくれる。すなわち、聖霊の導きを求めつつ、聖書に聞くならば、必ず、神がその人を導き、その人の心に語り掛け、聖書の教えを分かるようにして下さる。大人も子どもも、知恵や知識の有無はもちろん、富の有る無し等、全く無関係のことである。私たちは、そのように聖書に親しみ、その教えに聞き従うことが求められているのである。

<結び> 初めから一人で聖書に親しみ、聖書から学んで・・・という人は、ほとんどいないであろう。誰かによって教えられ、導かれして信仰は育まれるものである。使徒パウロが若い伝道者テモテに手紙を送った時、テモテがどのように信仰に導かれたか、どのようにその信仰の歩みを続けて来たか等、丁寧に思い出させようとしていた。(3〜5節)聖書によって養われ、育てられて来たこと、その聖書を通して永遠に約束された救いは、イエス・キリストにおいて成就したこと、そのキリストを信じる信仰こそ、聖書が明らかにしていることであると、テモテを励ますのである。(9〜10節)その頃、紀元一世紀の後半になり、諸教会を惑わす者が現れていた。テモテは牧会者として苦闘を強いられていた。意気消沈もしていたようである。(6〜7節)確かなことは、聖書の教えのみと、心するよう諭されていた。聖書を教えられ、自ら学んだことに留まること、すなわち、聖書から教えられた、イエス・キリストを信じる信仰による救いから、決してそれないことが神に喜ばれる生き方であると、そのことを再確認することによって立ち上がるよう、励まされていた。(11〜14節)

 私たちも、聖書から、何を信じ、どのように生きるのかを教会で学び、そして自ら聖書を学び、その教えに従う敬虔な生活を、確かに導かれたいものである。神がおられること、その神が遣わされたイエス・キリストを救い主と信じ、永遠のいのちをいただいて生きること、真の神のみを恐れて生きること、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜んで生きること、それこそが神が私たちに望んでおられることと、今一度しっかりと心に刻みたいのである。(※ヨハネ20:31)