礼拝説教要旨(2013.01.20) 
ケナズ人エフネの子カレブ
(ヨシュア記14章6節〜15節)

11章において、山地に住むアナク人をイスラエルが攻め落としたという記事が語られ、その地に戦争はやんだ、と言われていたが、14章は、それとは違った角度から語られている箇所で、ここでは民数記14章に記されている主の約束の成就が語られている。また、ここに見られるカレブの信仰の姿は、私たちに、とても大事なことを教えてくれる箇所であり、今日は、カレブの信仰に焦点を当てて見ていく。

1.45年前、カレブは、ヨシュアと同様に、モーセ率いるイスラエルが、偵察のため、カナンに送った12人の斥候の内の1人であったが、カナンには、アナク人という巨人の子孫といわれる強靭な民がいたため、ヨシュアとカレブ以外の斥候たちは、イスラエルの人々の心をくじけさせる報告をし、人々に恐れを抱かせてしまった。しかしカレブはその時民たちをいさめて、民数記13章30節で「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれが出来るから。」と励ましを語っている。そんなカレブに主は、民数記14章24節で、「ただし、わたしのしもべカレブは、ほかの者と違った心を持っていて、わたしに従い通したので、わたしは彼が行って来た地に彼を導き入れる。彼の子孫はその地を所有するようになる。」と約束してくださった。
だからこそ彼はここで、自分が当時踏み入った地、アナク人が住んでいたヘブロンを相続地として求めている。

1.それではなぜ、カレブがここでヘブロンを求めたのだろうか。何故なら、確かに主は、「わたしは彼が行って来た地に彼を導き入れる。」と約束されていたが、主は、ヘブロンを与えるとは明言していなかったからである。
 12節には、「主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。」とあるが、カレブは、ここで主が約束されたのは、この山地だと言っている。なぜ彼は、ヘブロンの山地が自分に約束された地だと思ったのであろうか。おそらくそれは、ヘブロンにアナク人がいたからであり、それは続く「そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があったのです。」という言葉にも表されている。11章でも見たが、45年前、イスラエルに恐れをもたらしたアナク人は、イスラエルにとっての恐れの象徴ともいうべき存在であった。また14節にあるように、ヘブロンは、アナク人たちにとっての要の地であった。
 45年前、他の斥候たちとは違い、アナク人を恐れずに、「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれが出来るから」と語ったカレブ。彼は、アナク人たちにとっての要の地ヘブロンを攻め取り、その恐れを断ち切ることが、自分に与えられている役目だと考えていたのではないだろうか。だからこそ、彼はヘブロンこそが、自分に与えられている約束の地だと信じた。そしてそれは、13節で主にあって認められることになる。他方、カレブは、民数記において、自分から土地を求めたのではなく、主の方から与えると約束されていたことを忘れてはならない。主の方からされた祝福の約束なのである。しかも単なる祝福ではなく、同時に、その約束の地を受け取ることは、戦う、ということでもあった。そういった意味で、カレブにとって、約束された地を受け取ることは、彼にとっての召しであり、それに応えることでもあったのである。つまり、主が自分を召したと信じる場所、ヘブロンを自分から与えてくださいと言ったのも、自らの相続地を得る、ということだけではなく、主が約束し、主がそこに自分を召したからという思いがあったからである。たとえ、そこに戦いが待っていたとしても、アナク人を一掃することを自分の召しだと信じたから、主の御旨が成ることをただただ願って、彼は、ここでヘブロンを攻め取ることを求めたと言えよう。その結果、彼は、その召しのとおりに、勝利を得ることになった。

3.次に注目したいことは、ヨシュア記14章8、9、14節で、「主に従い通した」という、カレブに関する言葉である。民数記14章24節にも「わたしに従い通した」と主によって語られていたが、45年前、人々が、カナンをあきらめ、エジプトに帰ろうと言う中、彼が疑わずに、恐れずに、約束の地を願い続け、主に信頼して、「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれが出来るから」と言ったことによって、「わたしに従い通した」と、主に言われたことを考えると、ここで言われている、「主に従い通した」とは、『約束の地を与えるといわれた主に信頼して、恐れずに、約束の地を願い続け歩んだこと』を指している。また、先ほど、カレブの召しとその応答について述べたが、加えてカレブが9節で、主が「行って来た地」(民14:24)と約束していた言葉を、「踏み行く地」と言い換えているのは、これから自分が踏み込んで行く、主にあって、戦い取っていく地、という意思を込めたからである。これらのことは、14章におけるカレブの歩みもまた、45年前から変わらずに、主に従い通す歩みであったことを指している。カレブは、今このときも、主に信頼し、そして、自らの心の内にあった、「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれが出来るから」という言葉のとおり、恐れずに、自らに与えられている召しに応え、主に従い通して、歩んでいたのである。彼は本当に、ただまっすぐに主を信頼して歩んでいたのである。45年を経ても本当に揺るがない、ぶれない歩みである。

4.14章10節には、「荒野を歩いた45年間」とあるが、実際にイスラエルが荒野を歩いたのは40年であるから、この足された5年は、カナンに入ってからの期間であり、この表現はカレブにとってこの5年の歩みもまた、荒野のようであったということを指している。荒野とは、起伏が激しく、岩がごろごろとして、遠くまで見渡せるような所ではなく、先が見えない、そのような場所であり、換言すれば、先が見えなく、まっすぐに歩むことが困難な場所である。つまりカレブは、先が見えない、まっすぐに歩むことが困難な荒野のような道を、45年間も歩んできたと言っているのである。しかし「主に従い通した」とあるように、彼のこの45年間の歩みは、先が見えなくても、本当に長い間約
束の地を待ち望み続け、まっすぐに歩むのが困難でも、ただまっすぐに主に信頼して歩む、主に従い通す歩みであった。主に、「わたしに従い通した」とまで言われたカレブ、その信仰は、賞賛をうけてやまないものである。

結び.カレブの信仰は、私たちにとって模範となるべきものだが、自らの信仰生活において実践して行くことに困難を覚えるのも実情である。私たちの歩みも、先が見えない、まっすぐに歩けない、そのような荒野のような歩みだが、この地上において、自分自身の罪との戦いの中、共なる主がいるから大丈夫だと、まっすぐに主を信頼して進むことのなんと難しいことか。どうしたら私たちは、この荒野の歩みを、ぶれずにまっすぐに進めるのであろうか。それは、主なる神の助けなくしてはありえないであろう。イスラエルの荒野での40年間、荒野には食べ物や水がなく、主によってマナや水が与えられなければ、イスラエルの40年間の荒野での生活は成立しなかった。換言すれば、主の助けがなければ、私たちは荒野を歩むことすら出来ないのである。主の助けこそ、私たちを歩ませるもの、主の助けこそが支えである。と同時に、カレブの言葉で、14章10節に1つ、12節に2つ、「主の約束」への言及があるのが興味深い。また9節は、主の約束の言葉を引用しているので、実質9、10、12節で、4度、主の約束への言及があることになる。彼が主の約束に関してこうまで言及しているのは、彼がその約束によって立っていたからではないだろうか。主の約束こそが、カレブの支えであり、彼をまっすぐに進ませたものだった。他でもない、主が約束してくださったからこそ、彼は恐れないで、まっすぐに主に信頼し、待ち望み続け、主に従い通せたのである。私たちに与えられている約束とは何であろう。私たちは、救われ、御国の約束に預かった者たちであり、罪に打ち勝ち、御国において完成へと導かれるとも約束されている。この地上という荒野の歩みにおいて、カレブのように、主の約束を支えとして、恐れないで、ただまっすぐに、主に信頼して、御国を待ち望み続け、自らに与えられた召しに応えつつ、主の御旨がなることをただ求める、そのように主に従い通す歩みをして生きたいものである。