礼拝説教要旨(2013.01.13) 
聖書=ただ一つの基準=
(テモテ第二 3:12〜17)

 ウェストミンスター小教理問答、問1は「人のおもな目的は、何ですか」、答は、「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」であった。神によって造られた人間は、神によってその存在を許され、神のために生きるものであること、その初めの良い状態に立ち返って生きることを、先ず思い返した。しかし、人間の現実は、どう逆立ちしても、自分からはその真理に行き着くことはない。真理への道しるべが、どうしても必要である。その道しるべは「聖書」のみである。「・・・聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(15〜16節)神の言葉である聖書によって、救い主キリストを信じる信仰へと導かれることを、パウロはテモテに思い返させていた。

1、問2「神は私たちに神の栄光をあらわし神を喜ぶ道を教えるため、どんな基準を授けていてくださいますか。」 答「旧新約聖書にある神の御言葉だけが、私たちに神の栄光をあらわし神を喜ぶ道を教える、ただ一つの基準です。」問答1によって明らかにされていることが、全ての人に求められていることであっても、その答に行き着くのは、聖書を神の言葉として受け止め、その聖書の光に照らされる人だけである。この点においても、人間の現実を真摯に理解する必要がある。すなわち、人が神によって造られたものなのか、それとも、偶然にもその存在を始めたものなのか、それによって答は全く違ったものになる。この問2も、神のかたちに造られた人間が大前提であり、その人間が、神に背いていること、そのため自分中心に生きていることを踏まえなければならない。真理が確かに存在していても、人はその真理に、自分からは到達し得ない。どんなに知識を増し加えても、知れば知る程、真理は人の無知を思い知らせる。その時、人が自分の限界を悟るなら、真理はすぐそこにある。

2、神がこの世界を造られた、その最初の「非常に良かった」時、造られた物はみな、神の栄光をあらわしていた。神はその被造物に、ご自身の「永遠の力と本性」を込めておられた。人は、その被造物を見て、そこに神を認めることができた。神はそのようにこの世界をお造りになられた。しかし、人は神に背いて、その心の目を閉ざすようになった。それでも、人は神のかたちに造られているので、生まれながらに神を求め、神を呼ぶ。しかし生ける真の神の元には辿り着かず、かえって偽りの神々の所へと向かうばかりである。(※ローマ1:20以下)そのような人間のために、神はご自身の言葉を与え続けて下さった。元々、言葉によって人に命じ、人がその言葉に従う時、神との幸いな交わりが約束されていた。その幸いな交わりを保つため、神は常に言葉によって人を導き、人がその言葉に従うよう願っておられるのである。神の言葉こそが人に必要な道しるべであり、人が歩む道の光である。自然の光だけでは神の元に行き着けない人間に、特別に神の言葉を示し、それによって神に近づく道を明らかにされたもの、それが「旧新約聖書にある神の御言葉」、すなわち「聖書」なのである。(※詩篇19:1〜14)

3、この問答2は、「聖書」を、私たちの信仰と生活の、「ただ一つの基準です」と言い表している。大教理問答3は、「旧・新約聖書が、神のみ言葉、信仰と服従のただ一つの規準である」と言う。いずれも人をお造りになった神の言葉が、人の生きる道しるべ、基準であることを明言している。神から離れ、神に背を向けながら、多くの人が自分の生き方を求め、ひたすら彷徨っている現実がある。人は何者か、人はどこから来て、どこへ行くのか・・・等々、多くの書物が書店に並んでいる。人間を造られた神が語られた言葉、神が人間に望んでおられることを明らかにしている聖書、これを抜きにしたまま、人が生きる道を探るのは、はなはだ危ういものと心したい。もし人が聖書以外に、自分の生きる道を求めるなら、それは的はずれなことである。あるメーカーの電機製品を手にしながら、別のメーカーの取り扱い説明書を見るような、そんな間違いを犯すことになる。よく似ているから大丈夫・・・では済まされない。私たちは、自分の生き方について、細心の心遣いが必要と、改めて心に留めたい。神の言葉こそ、人の生きる「道しるべ」なのである。(詩篇119:105)

<結び> 「旧新約聖書にある神の御言葉」との表現には、またいろいろな解釈がなされている。この表現は、聖書のある部分は神の言葉ではないと、そんな解釈を引き起こす。また、聖書は、誰かが読む時、神が語られる・・・とも。それらは大いに注意すべきものである。私たちは「聖書はすべて、神の霊感によるもの」とする、その解釈を大切にしている。旧新約聖書の全体が、神の霊感によるものであり、神がその霊によって生み出して下さったものとして、聖書を受け止めることである。その聖書によって、私たちはイエス・キリストを信じる信仰へと導かれ、神の民として、またキリストの僕として、どのように生きるのか、神が何を求めておられ、何を願っておられるか、また神がどのようなお方なのか、実に様々のことを知ることができるのである。

 聖書なしに、人がこの世を生きるのは、舟が羅針盤なしに海に出るようなものと、よく言われる。地図なしに山に登るようでもある。また、準備なしに旅に出るようなことでもある。たまたま上手く、何事もなく行くかもしれない。でもそれは、他の人に勧められることであろうか。聖書が与えられていること、そして、私たち一人一人が、自分で理解できる言葉で読めること、それらは途方もない恵みである。私たちは、その恵みを空しくすることのないよう、感謝に溢れて聖書に親しもうではないか。聖書には、私たちを導いてくれる教えが満ちている。また戒めがあり、正しい道に引き戻してくれる、矯正と義の訓練のために有益である。聖書に聞き、その教えに聞き従う歩みを、思いを新たに祈り求めたい。