礼拝説教要旨(2013.01.06)  =幼児洗礼式あり=
人のおもな目的は何ですか
(コリント第一 10:13)

 主の2013年、最初の主の日を迎えた。今日から、礼拝にて「ウェストミンスター小教理問答」を順次学びつつ、生ける神のみ旨を探ってみたい。いつもと少し違った説教になるか、同じようか、そして、どれくらい続くのか分からないままである。以前に成人クラスで学んだが、私たち長老教会の大切な信仰基準であり、より多くの方と一緒に理解を深めるには、やはり礼拝が最適と、そう考えたからである。

1、「人のおもな目的は、何ですか。」との問いに対して、「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」と答えるのが、第1の問答である。根拠としての聖書は、コリント第一10章13節、ローマ11章36節、そして詩篇73篇25〜28節が挙げられている。この問答の背後には、何よりも神による人間の創造がある。神のかたちに似せて造られた人間は、神によって、その存在の始まりを許されたのである。世界の始まりとともに、人間の始まりは、「それは非常に良かった」と言われるもので、人は神の命令に従って生きる限り、何一つ不自由なく、神に祝福されて生きていた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて、彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように」と命じられた通り、人は託された務めを果たし、神の栄光をあらわし、神を喜んで生きていたことになる。(創世記1:26-31)その意味において、この問答1は、人が造られた最初の状態に帰ること、そのことに気づいて、神を神として生きること、それが人として出発点であることを説いている。人は、神の栄光を現し、神を喜ぶ者として造られ、生かされていたからである。

2、それにしても現実の人間は、余りにも自分中心であり、神を神とすることなく、かえって自分こそ神とする如くに生きている。それは、最初の人アダムが神に背いたからに他ならず、神よりも自分、自分が喜ぶことを追い求めるのが、人の生きる目的となったからである。(創世記3:6)人の生き方の全てが自分中心、自分の益、自分の満足、自分の喜びとなっている事実は、誰もが認めることであろう。そして神に背いた罪の結果は、ありとあらゆる悪の根元となり、最早人は、自分からは決して、神の栄光をあらわし、神を喜ぶことなど、考えもしない者となっている。けれども、「人のおもな目的は何ですか」と問われるなら、最初に人が造られた時の目的、神が人に望んでおられることは、やはり「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」と、その答えは用意されている。その答えに行き着く人は少なくても、人が立つべき真理として、この答えこそ、全ての人に求められる答えなのである。

3、けれども、「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」との表現には、理解し難いものが残る。何をどのようにするのかを考え始めると、益々分かり辛くなる。しかし、造られた世界、被造物の姿を思い返すと、そこに理解の助けがあることに気づく。「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」(詩篇19:1)この言葉は、自然界はその存在によって、神の栄光を現していることを明言している。自然の移り変わりなど、森羅万象は、神の栄光を語り告げているのである。一方人間は、その存在だけでは神の栄光をあらわすことができず、罪を悔い改めて神に立ち返り、キリストを信じて神の子とされ、改めて「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶ」人となることが求められている。その人が、イエス・キリストを通して神を信じ、神を喜んで生きるようになる時、その存在が神に喜ばれ、神の栄光をあらわして生きていることになる。私たち人間の本質は、堕落以来、どうしても何かをすること、何かができることに傾く。存在そのものが神に喜ばれることより、何かを成し遂げている自分が認められたいと、そう願い易い。しかし、私たちの存在そのものが神に喜ばれるものとなること、そこに人の生きる大切な目的がある。

<結び> 私たちは、主の日の公の礼拝を大切にしている。「主日礼拝」または「聖日礼拝」と言い表し、これを尊んでいる。しかし、ともすると、神の栄光をあらわすため「聖日厳守」に拘り、それさえ果たせば良しとするような、そんな落とし穴にはまる。牧師は説教することに懸命で、間違った説教をしていても、それに気づかないことがあると、そんな警告も聞かされる。元旦礼拝で、「主を恐れることは知識の初めである」と箴言の言葉に耳を傾けたが、素直に、また率直に神を信じる信仰をもって、神がおられることを喜び、感謝して生きることが、どれだけ尊いことかを心に留めたい。

 また、今朝の礼拝にて、幼児洗礼式の恵みが備えられている。聖礼典には、神が定めて下さったことに、私たち人間が従うことの大切さ、尊さが込められていることを、改めて思わされる。主イエスが洗礼と聖餐を定められたので、私たちは心からそれを行い続けるのである。礼拝や聖礼典とともに、私たちが日々生きること、それぞれの家庭や職場、そして地域や社会で、何をするにも、神がおられることを信じて振る舞うこと、語る言葉も行動も、全て神を恐れる者としてのものなのか、いつも慎重であることは、とても大事である。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」この言葉を、心に刻み直したい。そして神が私たちと共におられることを喜んで、それぞれの所に遣わされたいものである。