礼拝説教要旨(2013.01.01)  元旦礼拝
主を恐れることは知識の初めである
(箴言 1:1〜19)
 
 主の2013年を迎え、この元旦礼拝において、主が何を語って下さるのか、そして、私たちが何を聞くのか、今年も大きなチャレンジである。昨年は、元旦に主の日の礼拝をささげて歩み始めた。一昨日、53回目の主の日の礼拝をささげ、そして今日、この礼拝の時を迎えている。いつもの年に増して、主に信頼することが求められていると感じる。果たして、どのようにこの一年を歩んだらよいのか。徒に心を騒がせることなく、そして、拠って立つ所はどこか、心して歩みたいものである。私たちは、何を第一として歩んでいるのか、箴言の言葉に耳を傾け、先ずは信仰の土台を再確認したい。

1、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」この箴言1章8節の言葉は、多くの人が心に留めている、大切な教えの一つである。その通り「アーメン」と、クリスチャンなら誰でもが肯く。同時に、クリスチャンでなくても、「なるほど」と心に響く教えである。しかし、本気で「その通り!」と、心から信じるかどうか、それは全ての人が問われることになる。言い換えれば、私たちクリスチャンこそ、今一度、本気でそのように納得しているかどうかを、自分の心に問うこと、そのことをすべきと思われる。自分の人生においての優先順位のことなど、自分を振り返ることから始めることである。神を恐れ敬い、心から神に従っているか・・・

2、この世は、最初の人アダムが堕落して以来、神を忘れ、神を無視して、自分中心に人が生きることを、それこそ闇雲に追求するばかりである。それが全てであり、それが一番大切として憚らない。先の選挙の結果を見ても、多くの人が望むのは「経済」であることが、残念ながら見え隠れしている。確かに「経済再生」が望まれる。けれども、果たして以前のような「経済成長」を、尚も望み続けることができるのだろうか。今や私たちの周りには、「物」が溢れている。「どうしても必要なものはわずかです。いや、一つだけです」と、主イエスは言われた。(ルカ10:42) そして愚かな金持ちのたとえを語り、「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです」と、何を大事にして生きるのかを問うておられる。(ルカ12:16-21)神を忘れ、神を心に留めない生き方は、どんなに悲惨であるかに気づくようにと。

3、箴言の教えには、主イエスの教えと同じ響きがある。神からの知恵と訓戒をさげすむ者、その人は「愚か者」である。本当に「賢い者」は、生ける真の神、主を恐れかしこむ人である。主を恐れて生きる人こそが、この世で、一番大切な知識を得て生きる人なのである。その人は、この世で生きる時、実に様々な誘惑に、必ず打ち勝つことができる。罪人たちの誘いの多くは、富の惑わしである。「あらゆる宝物を見つけ出し、分捕り物でわれわれの家を満たそう。・・・」(13〜14節)私たちの周りにも、誘惑は驚くほど満ち溢れている。「わが子よ。彼らといっしょに道を歩いてはならない。あなたの足を彼らの通り道に踏み入れてはならない」(15節)との警告に、本気で耳を傾けられるのは、神、主を恐れる者だけである。神を見失う時、誘惑に陥るのである。

<結び> 人間の驕りと高ぶりの極みは、社会にどのように現れるのだろうか。日本の社会は、世界でも希な経験をしている、そんな社会と思う。明治時代になって、「富国強兵」を掲げ、欧米に並ぼうとしたこと、それが成功したと思い込んで、太平洋戦争に突き進んだ。きっと驕りと高ぶりによって、前進し続けたのに違いない。そして遂に敗戦を経験した。しかし「敗戦」によって、不思議にも、福音が爆発的に人々の心に届くようになったのも事実である。驕りや高ぶりが退けられ、真の神がおられることが分かり易くなったのかもしれない。信仰の多くの先輩方が、そのことを証ししている。

 しかし、今また、社会には、強い言葉や勇ましい言葉が蔓延し、慎むことを忘れてしまったかのようで、危うさをにじませている。物が溢れているにも拘わらず、尚も富を求め、これを蓄えようとするのだろうか。原子力発電所から出る廃棄物が、ほとんど制御不能と分かっても、尚これを制御するのが人間の英知と、そのように言うのだろうか。今朝、「主を恐れることは知識の初めである」と、私たちは心に刻んで、この年の初めに礼拝をささげている。私たちが、生ける真の神を礼拝し続けること、私たちこそが、神を恐れて心を低くする者であること、そのことをこの一年貫けるよう、心から祈りたい。