救い主の誕生というクリスマスの出来事は、私たちに大きな喜びを与えてくれるもの、そして毎年、そのクリスマスを祝える私たちは、真に幸いである。今朝、この年末の礼拝においても、クリスマスの喜びを感謝しつつ、神が生きておられること、また私たちを導いて下さっていることに目を留めてみたい。主イエス・キリストは、神の約束に従って、この世にお生まれになり、私たちと同じようにこの地上を歩まれ、十字架で死なれ、三日目によみがえり、天に昇り、今も生きておられる。その全てのことを、神は、ご自身の永遠のご計画によって成し遂げようとされたのである。
1、今月の礼拝では、「メシヤ預言」の言葉に目を留め、救い主の誕生を確かに起こった出来事として、しっかり心に刻もうとした。処女マリヤからの誕生も、ベツレヘムでの誕生も、神が約束された預言が成就したことであった。また預言に注目したのは、神を忘れたような時代の中で、本当に頼るべきは生ける神であることを、預言者たちが懸命に語っていたことを覚えたかった。今、私たちも、頼るべきは生ける神のみと心から信じているか、問われているからである。先週の水曜日、新内閣が発足した。その内閣のため、また国会のために、私たちは祈らなければならない。「公義」が行われることを。そして「公平」が地に実現することを。この世の為政者たちが道を誤ることのないよう、監視する目も開かねばならない。他方、現実は、私たちの思いではどうにもならないまま進むことも予想される。そんな時、私たちはどのように祈り、どのように考え、どのように振る舞うことが求められているのだろうか。
2、そのことの答えのヒントが、最初のクリスマスの出来事の一端にあるように思われる。ガリラヤの町ナザレに住んでいたマリヤとヨセフは、皇帝アウグストの勅令により、ベツレヘムへと向かわせられた。自分たちで決めたことではなく、時の権力者の都合で振り回されていたのである。しかし、神のご計画は全てを支配していた。救い主は、確かにベツレヘムでお生まれになった。そして、母マリヤと夫ヨセフは、その町でしばらく住むことになった。その頃、のことである。「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムのやって来て、こう言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東の方でその方の星を見たので、拝みにまいりました。』」(1〜2節)博士たちが、時の王ヘロデに対し、丁重に挨拶し、新しい王の誕生を祝いたい、拝したいと願い出ていた。驚きと戸惑いを見せたヘロデであったが、動揺を隠しながら、博士たちが言う王は「キリスト」のことと理解し、学者たちから、「ベツレヘム」の地名を聞き出した。そして彼なりに次の手だてを探りながら、博士たちをベツレヘムに送り出したのであった。(3〜8節)
3、博士たちの来訪は、幼子イエスに、とんでもない危機をもたらそうとしていた。博士たちは、東方で見た星に導かれ、幼子を拝する喜びに包まれた。そして、宝の箱から贈り物を捧げ、ヘロデの所には戻らず、別の道から自分の国へ帰って行った。神ご自身が、夢で彼らを導いておられたからである。(9〜12節)その間、ヘロデは準備を整えていた。けれども、神はその殺害計画を見抜いておられた。御使いを遣わし、ヨセフにエジプトに逃げるよう命じられた。ヨセフは、すぐさま、夜のうちに幼子とマリヤを連れて、エジプトへと逃れた。三人はヘロデが死ぬまでそこに留まり、次に神が導きを与えて下さるのを待つのであった。その状況を思うに、彼らは、果たして慌てふためいて行動していたのであろうか。「ヨセフは立って、夜のうちに」との記述は、急な出立を思わせるが、実際には、神の導きに対する即座の応答を告げることである。狼狽えたことではなく、主なる神の守りを信じる、冷静さ、沈着さと思われる。ヨセフは一貫して、主の導きに対して従順であり、即座に応答している。それによって、幼子イエスにはいささかの危険も及ぶことなく、神の守りと両親の愛に包まれて、幼子は成長していくのである。(13〜15節、※16節)
<結び> マリヤとヨセフ、そして幼子イエスは、確かにこの世の権力者に翻弄されていた。けれども、神のご計画、永遠からの救いのご計画は、何者にも妨げられなかった。確実に実現し、成就していた。救い主である幼子イエスの誕生の事実は、先ず羊飼いたちに知らされ、エルサレムの宮ではシメオンとアンナを幼子に出会わせ、東方の博士たちをも、ベツレヘムに導いて礼拝するようにさせられた。博士たちには、新しい王を拝みたいと、懸命に努力した一面もあったが、神の確かな導きなしに、幼子の所には辿り着けなかったのである。また、彼らは日頃から、聖書の預言に触れていたのに違いない。それなしに「ユダヤ人の王としてお生まれになったか方はどこにおいでになりますか」とは、決して言えなかったと思われる。そして神は、約束されたことを、実現へと推し進めておられたのである。(※イザヤ9:7、創世記3:15)
神がそのご計画を実現させようとしておられる時、それこそ絶対的な守りがあること、必ず御手を差し伸べておられることが、クリスマスの出来事に明白である。特に、マタイの福音書の記述は明解である。ヨセフは、自分の役割を果たすだけでよかった。特別な知恵や力を求められたわけではなかった。夫としてマリヤを守り、父として幼子を守ることが求められた。すなわち、普段の生活を営む中で、神が導きを示して下さる時、躊躇わずに行動を起こすこと、行けと命じられたら、その導きに従うこと、これが彼の姿勢であった。何よりも、神がおられること、その神が必ず導きの手を差し伸べて下さるとの、明確な信仰があったものと思われる。折りに触れて、必ず道が示されると信じ切ったのである。心の目も耳も、神に対して開かれていたのに違いない。
私たちが学ぶべきことは、そのような信仰の姿勢であり、生き方ではないだろうか。神は永遠から永遠に至まで、全てを支配しておられる。永遠からの救いのご計画は、主イエス・キリストの誕生と、十字架の死と復活により、私たちに明らかにされ、その救いは聖霊の働きによって、私たちにもたらされている。そして私たちの日々の生活を、正しく絶対的な守りで支えて下さっている。その守りを信じて、何事が起ころうと、いよいよ神と共に歩ませていただきたいものである。
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