今年のクリスマス、預言者イザヤの言葉に目を留め、「メシヤ預言」がどの様な状況の中で語られたのか、そこに込められたメッセージの中心は何かを探ってきた。今朝、このクリスマス礼拝において、もう一つのメシヤ預言に目を留めてみたい。救い主キリストがこの世に生まれる以前、七百年以上も前、神はご自身の救いのご計画を、預言者たちを通して明らかにし、その言葉を信じて神を待ち望む人々を起こそうされていた。それによって、神の救いを心から求める人々を起こしておられた。神は何時の時代にも、神に頼る者を起こし、周りの多くの人が神に背いていても、必ず救いに与る「残りの者」を導いておられた。私たちは、この現代において、果たして、心から神を仰ぐ者であるのか、世の流れに染まり、同時に流されている者なのか、世の中の騒がしさに圧倒されながら、心を引き締めさせられる、そんな思いがするこの季節である。
1、「メシヤ預言」の言葉に目を留め、心を向けようとした理由の一つは、クリスマスを単なるおとぎ話のように捉えることなく、確かな事実として起こった出来事であると、しっかり心に刻みたかったからである。処女降誕を始めとし、常識的には信じ難いことが起こっていた。けれども、神が約束された預言が確かに成就したことを、もう一度はっきりと信じたいと、そのように願った。もう一つの理由は、その預言が、神に頼ることなど到底思いつかない、激しい政情不安の中で語られていたことを、今の時代に重ねながら理解したいと、そのように願ったからである。「今の時代」とは、この今の日本の社会を思い描いている。先週16日に総選挙が行われ、その結果を受けて新しい内閣が発足する筈である。果たして、国会や新内閣が、国民の期待に本当に答えてくれるのか、恐れと不安は解消されているとは思えない。差し迫った経済的な課題は、日本だけでなく世界中に広がっている。富の不平等の拡大、エネルギー確保の課題、道徳観を巡る混乱、再び戦争への道を行くことになるのか等々、問題は山積みで手の打ちようがないと、頭を抱えているのが事実かもしれない。私たちは、人間の限界を悟り、生ける神にこそ頼るように、迫られているのではないだろうか。私たち人間の目に、先のことが見えず、恐れと不安ばかりが迫る時こそ、主を待ち望めと、そのように神が招いておられるものと思われる。心の目を見開いて、本当のことを見極めよ、神を待ち望めと。
2、メシヤ=キリストの到来は、ユダヤのベツレヘムからと、そのように告げるミカ書の言葉は、預言者ミカにより明解に語られていた。ミカは預言者イザヤと同時代に活躍し、イザヤと同じように、王たちの不信仰や不正を責め、また民の不信仰と堕落を糾弾していた。神に頼らずアッシリヤに頼ったことの誤りは、北イスラエル王国のサマリヤ陥落(BC722年)の後、アッシリヤが南ユダ王国をも脅かすようになり、いよいよ明らかになっていた。神の民には、何時でも、どこでも、必ず神が共におられるとの、確かな守りがあったにも拘わらず、王も民も、神にではなく、人に頼り、自分に頼ろうとしたからである。ミカはイザヤと同じように、神が永遠から定めておられる救いのご計画にこそ、拠り頼むように、その救いを待ち望むようにと、預言の言葉を語っていた。エルサレムが外国の軍隊によって辱められるとしても、それでも、「あなたがたには、神が約束された王がおられる。その方はベツレヘムから出る」と。神は、神の民に相応しい支配者、王を備えておられたのである。ベツレヘムから「わたしのために」と言って、神ご自身が責任をもって、この約束を果たすと言われた。その時まで、苦難の日が続くとしても、その日は必ず来る。そして、その王が民を養い、真の牧者として民に平安をもたらすと。真の王は、本当の意味での「平和」をもたらすお方であり、人の見方とは違った形、小さな村ベツレヘムから来られるのである。(1~4節)
3、この方がもたらす平和は、地上の王がどんなに強く、これに打ち負かされたとしても、最後はこれを退け、全き平和が実現されるというものである。(5~6節)これを信じ切るのは、現実的に大変難しかった。それでも神に頼り、神を待ち望むようにというのが、預言者のメッセージである。今、目の前のことは、十分に理解できず、信じ切れないとしても、それでも神を待ち望むなら、究極の救いが約束されるのである。「彼は、私たちをアッシリヤから救う」とは、その時点では、まだ実現していないこと、終わりの日の救いの完成のことであり、神の救いのご計画の、大きな広がりに触れていたことになる。その終わりの日の平和の実現は、4章で既に触れられ、戦いが止むだけでなく、人々が二度と戦いのことを習わない、弱い者こそが強くされる、そのような平和であることが告げられている。そこでは、真の王にして平和をもたらすお方に出会った者、その方の平和を喜ぶ者が、その平和を地に実現するために生きる者となるよう期待されている。その関連で、6章で、民への問い掛けがなされている。あなたがたは、神の前にどうように生きようとしているのか・・・、「わたしの民よ。わたしはあなたに何をしたか。どのようにあなたを煩わせたか。わたしに答えよ。・・・・人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。・・・・」と。(3・・8節)私たちも、何時の時代に生きるとしても、心を見ておられる神の前で、生き方そのものが問われている。
<結び> イザヤ書7章14節の預言は、幼子イエスが母マリヤから生まれたことに成就していた。そのマリヤへの御使いの知らせにおいて、9章6~7節の成就が明言されたいた。そしてミカ書5章2節の預言は、ユダヤのベツレヘムで救い主が誕生したことに成就している。母マリヤと夫ヨセフは、ローマ皇帝の勅令に翻弄され、ガリラヤの町ナザレからベツレヘムへと向かわされた。臨月が近づき、通常は長旅を避ける時であったが、神の御手の中で二人は歩み、ベツレヘムで幼子の誕生を迎えた。神の成さる不思議が、確かに起こっていたのである。王となる幼子の誕生を恐れたヘロデ王は、学者たちから「ベツレヘム」を聞き出し、直ちに幼子の抹殺を謀った。けれども、神のご支配は完全であった。博士たちが幼子イエスを拝した後、ヨセフは御使いから、幼子とマリヤを連れ、エジプトへ逃れるよう命じられた。神の永遠のご計画が、いささかも妨げられることのないようにされたのである。(マタイ2:1~23)
ベツレヘムでお生まれになった幼子こそ、真の王、平和をもたらす王なる方であった。神に背いた人の心を神に立ち返らせ、罪の赦しを与えるため、十字架で身代わりの死を遂げるために、お生まれになったお方である。お生まれになったその幼子のことを、御使いは羊飼いたちに告げていた。「きょうダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」(ルカ2:11~12)羊飼いたちは、救い主イエス・キリストを礼拝した最初の人たちであった。私たちも、平和をもたらす真の王としてお生まれになった方、主イエス・キリストを心からお迎えし、この方を礼拝し、この方のもたらして下さる平和を、心から喜ぶ者として歩んでいる。何時、どんな時も、どんなことがあっても、神を待ち望む信仰をもって、主イエス・キリストがもたらして下さる平和の内を、確かに歩み続けさせていただきたい!
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