パウロは、手紙のこれまでのところで、「かき乱す者たち」によって、誤った福音に引きずられかけていた、ガラテヤの教会に、福音の真理について、律法からの自由について語り、立ち返ることを勧めます。そして、5:16以降、パウロは、勧めを一転します。イエス様を信じて救われた者が、この世をどう生きたらよいのか、キリスト者の生き方を勧めます。結論は、「御霊によって歩みなさい。」です。御霊によって歩むとは、どういう生き方なのかを教えられてまいりたいと思います。
1、まず、御霊の存在と力と働きをしっかり覚え、信じたいことです。御霊によって歩むための第一歩目です。
パウロの勧めはこうです。あなたがたを救いへと導いたのは、御霊です。キリスト者としての生き方についてもまた、この御霊に拠り頼み、導きにゆだねて歩みなさい。あなたがたには、すでに御霊を受けているではないですか(3:2)、とです。
ところで、パウロは、御霊についてガラテヤの教会に、どのように教えていたのでしょうか。先ほど読みましたように3章に、4度にわたって、御霊の存在と力と働きをしっかり覚えるように強く教えています。
4度に共通している御霊についての教えは、@イエス様を信じることが出来たのは、御霊の力と働きによるものであること、Aイエス様を信じていることを神様の前で保証してくださるのは、御霊であることです。
割礼がなくとも、あなたがたがイエス様を信じていることを御霊が、神様の前で保証してくださるし、律法がなくても御霊に拠り頼み、ゆだねて歩むならば、神のみこころにかなう生き方が出来ることを覚えなさい、とパウロは、説いているのです。
”あなたがたのうちに住んでおられ、また、あなたがたは、御霊の中にいることを認めなさい”(ローマ8:9参照)と、パウロは、迫っているのです。
イエス様も御霊を”助け主”<原意:傍(かたわ)らで、呼ぶ方>と言われています(ヨハネ14:16等)。御霊は、イエス様へと導く“いと近き助け主”なのです。
私たちも、イエス様とパウロの教えに従って、御霊の存在と力と働きをこのように理解し信じ、受け入れて、御霊によって歩みたいのです。
2、次に、肉を御霊によって支配し、制していただきながら生きること、肉で(人の手で、人の力で)肉と戦わないこと。御霊によって歩むことの第二歩目です。
”肉”とは、神に造られながら「神のひとりのようになった」(創世記3:22参照)アダムの原罪を負って生まれて来た、自然のままの人間です。罪が姿・かたちを取ったものでもあります。神様なしに永遠を手に入れ、永遠に生きようとする人間の姿です。「肉の行い」は、先ほど触れました19―21a節にある通りです。
私たちキリスト者は「終りの日」に、この肉が贖われることを信じ、望みを持っていますが、今は肉の一面を持ち、肉の世の只中に生きています。日々,いや刻々肉との戦いです。自分の肉(罪)と肉の世の悪(罪)との戦いです。しかし、その懸命の戦いは、神様に認めていただける勝利になっているでしょうか。自分の肉を自力で制し、勝利したかに思えても、心を見られる神の前では、むしろ敗北が明らかです。
私たちキリスト者の「自分がしたいと思うこと」(17節b)は、神のこころに生きること、律法の期待に応えて生きたいということでした。しかし、この敗北の中で、勝利の見通しが全くない暗やみの中で、私たちはどうすればよいのでしょうか。
パウロは、勧めます。御霊に闘っていただきなさい。御霊の力とお働きに肉の行いとの戦いをゆだねなさいとです。パウロの確信に満ちた勧めです(16節冒頭)。この確信の背景には、パウロのいのちがけの体験があります。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:24)、肉に自力で戦った、たましいの告白です。
肉(罪)との戦いは、御霊に闘っていただきましょう。御霊の力とお働きに肉(罪)の行いとの戦いをゆだねましょう。肉(人の手)によって肉と戦う、決して勝利なき、空しい、死に至る戦いはやめましょう。「神の国は近くなっているのです」(マルコ1:14)。
これが、御霊によって歩むことの第2歩目です
3、第3歩目。御霊による歩みは、私たちの心に平安を与えます。このことを覚えて御霊による歩みを確かなものにされたいのです。
私たちの日々の歩み(生活)が、御霊による歩みになっている時、私たちの心には必ず平安があります。22節にありました、「御霊の実」のひとつに「平安」がありました。「平安」に注目して考えてみましょう。
たとえば今、私たちがささげている、この礼拝の霊的な意味を考えてみたいのです。私たちは、一人ひとりがいろんな思いを持って礼拝に集(つど)ってまいりました。しかし、私たちが、どのような思いにあろうとも、御霊が、礼拝の心をととのえ、備えてくださり、みこころにかなった礼拝へと導いてくださることだけを信じています。
それとともに、御霊に拠り頼み、おゆだねするとき、私たちの礼拝を神様は受け入れてくださっているのだろうかという、肉の思い煩いや不安との戦いに御霊は、打ち勝ってくださっているのです。そして、大きな平安が与えられ、澄み切った、きよめられた心でみこころにかなう礼拝がささげられるのです。これが、御霊による歩みではないでしょうか。
祈りについても全く同じです。御霊に拠り頼み、おゆだねするとき、御霊は、祈りは聴かれているのか、という肉の思い煩いに打ち勝ってくださり、すべてをみこころの祈りへと、ととのえてくださり、祈りは聴かれているという平安の実が与えられるのです。
心に平安があることが、御霊による歩みを判断するカギです。神のみ前で自分の心に手をおいて、誠実に省みたいのです。もし平安がなければ、まことの御霊による歩みを御霊に祈り求めてまいりましょう。それが、5:25の勧めです。
「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」。御霊によって歩むことによる平安を誠実に保ちたいと思います。
最後に、ローマ8:5,6を読みます。
「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。
肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」
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