預言者イザヤは、国家の危機を前に動揺するアハズ王の前に立ち、「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません」と、神に信頼することを命じていた。主を待ち望むことこそ、今、最も大事なことと語ったのである。そして、その時に「インマヌエル預言」は語られていた。神が共におられることの確かさ、それは普遍の真理だからである。神が成さる不思議にこそ、神の民は立つべきであると。それでもアハズは心を閉ざし、自分の知恵に頼り、北の大国アッシリヤの助けを借りようとしていた。しかし、イザヤの警告の通り、やがて、北イスラエルとアラムはアッシリヤに滅ぼされ、そのアッシリヤの脅威が、南ユダ王国にも迫ることになる。北イスラエル王国では、物心用面に渡る荒廃が国中に広まり、その荒廃は南ユダ王国にも及びつつあった。8章19〜22節は、そのような状況を告げている。その中で預言者イザヤは、闇の中に輝く神の光を見出し、神からの確かな預言を語った。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。・・・」と。
1、「苦しみにあった所」、「ゼブルンの地とナフタリの地」「海沿いの道、ヨルダンのかなた、異邦人のガリラヤ」は、アッシリヤによって攻め取られた地域である。アハズ王は、その時、当面の安心を得ていた。自分の国は安泰・・・と。けれども預言者イザヤには、神ご自身から、アッシリヤの脅威は南ユダ王国にも迫っていることが告げられていた。そのような中で、再び、神が遣わして下さる真の救い主、メシヤに関する預言が託された。(6〜7節)その預言の序言が1〜5節と理解できる。荒廃した地に「光」が指すこと、神を仰ぐ者は「大きな光を見る」こと、神を待ち望む者は確かな救いを受けること、神が与えて下さる救いを喜ぶのは誰か・・・等々、大切な問い掛けがなされている。真の神、主は、アッシリヤからの解放も約束し、神に頼って勝利することを約束しておられた。「ミデヤンの日になされたように」とは、ギデオンが三百人でミデヤンを打ち破ったことを指している。初め三万二千人いた中から、最後に三百人を選び、神が勝利されることを民に示されたのである。自分に頼らず、神にのみ拠り頼むこと、その神による平和こそ尊いことを忘れてはならなかった。(士師記7:1-23)
2、イザヤは、神が平和を実現して下さることを信じ、待ち望んでいた。また王も民も、同じように神を待ち望むことを期待していた。そして神がもたらして下さる平和は、「ひとりの男の子」の誕生によることが、7章14節に続くように再び告げられる。「インマヌエル」と呼ばれる男の子は、まだ生まれていなかったが、その男の子が必ず生まれるとの意味を込めて、この6〜7節の預言が語られている。「ひとりのみどりご」「ひとりの男の子」は、「私たちのために生まれる」「私たちに与えられる。」その子は、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれること、平和をもたらす、その王としての統治は限りなく続き、ダビデの王座を揺るがないものとすること、そのような王国の実現は、「万軍の主の熱心」によることが明らかにされている。真の神であり、真の王である方が、必ず生まれる、必ず来られると。目の前の現実とは、大きくかけ離れていたかもしれない。けれども、神が生きて働かれる時、約束された救い主、真の王なる方、その男の子は必ず生まれると、神はイザヤを通して、その当時の人々に語っておられたのである。何時、如何なる時も、神を待ち望むことこそ大事!神を待ち望む人こそ幸い!!と。
3、イザヤという預言者は、とても不思議な経験を繰り返していた。最初の男の子、「シェアル・ヤシュブ:残りの者は帰って来る」に続いて生まれた男の子には、「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ:分捕物は素早く、獲物はさっと」と名付けるように命じられた。(3:3-4)その子が生まれる前に、「インマヌエル:神が共におられる」と名付けられる男の子の誕生を預言していた。イザヤが活動する当時の状況を、子どもたちの名で証明されながら、預言者として歩んでいたのである。目の前に実現することと、ずっと先の実現を約束されることが重なり、しかもはっきりと実現したことを見ながら、新たな預言を語るように導かれていた。神の言葉の確かさと、人の心の頑なさの両面を思い知らされながら、イザヤは預言者の務めを果たしていたのである。イスラエルとアラムの脅威を逃れようとアッシリヤに頼んだアハズ、そのアッシリヤの勢力が、南ユダ王国をも脅かす・・・。イザヤはそのことに警告を発しながら、神、主を待ち望むように説き続けていた。そして、神の究極の救いの約束を語っていた。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。・・・」この預言は、およそ七百年後、ベツレヘムで母マリヤから生まれ、イエスと名付けられた男の子において成就した。この幼子こそ、「平和の君」、真の王として、真の平和を地に遍く、とこしえにもたらすお方に他ならなかった。
<結び> クリスマスを迎える度に、私たちは預言の言葉と、その実現した事実を思い返すよう導かれている。途方もない出来事が実際に起こったことを知って、感謝をささげ、喜びに包まれる。この世がどんなに暗く、行く手を阻む闇が深くても、神は救いを備え、光を与え、助けを与えて下さるのである。助けてくれるでしょう、大丈夫でしょう・・・とのあやふやさではない。「生まれる」「与えられる」「肩にあり」、そして「と呼ばれる」は、もうそのように起こったことを表している。確実に起こったこととして語られていた。私たちは、イザヤが語った預言が、二千年前に成就したことを知って、クリスマスを祝っている。そして、聖書は更に後に起こることも預言している。私たちの知識や知恵、また理性では、とても考えの及ばないことである。しかし、謙虚になって、私たちの考えの及ばないことだからこそ、神を信じて、神のみ業の成ることを待ち望むことが大事と気づかされる。
神は私たち人間が不信仰で、物分かりが悪く、自分勝手であることをご存知である。どんなに背いたとしても、ご自分の民を救うためには、そのご計画を変更されることはなかった。必ず救うとの約束は決して変わらない。「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」との言葉は、神が、ご自身の真実に懸けて、約束した救いは成し遂げられることを告げている。人の思いを超えた不思議を心から信じるようにと、私たちは招かれているのである。神に不可能なことはない。だから、どんなに追い込まれても、私たちは神を待ち望むのである。神が与えて下さる平和、そして本当の喜びを感謝して、このクリスマスの時を過ごしたい。
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