クリスマスの季節、いわゆる教会の暦の「待降節」の三週間が、今年は丁度12月に収まる、その第一週を迎えた。もちろん救い主のお生まれを喜ぶのは、この時に限ったことではなく、それは一年中、大きな喜びである。しかし、十字架と復活は、私たちにはもっと大事な出来事と言える。誕生があり死があり、誰も死を逃れることができなくても、死後の復活があるなら、それは、信じる者に大きな望みを約束する特別なものである。けれども、信じない者には、大きな躓きをもたらすことになる。そこには、神を信じるのか否かを、いつの時代にも問い続ける、大切な問いが潜んでいる。救い主の誕生は、その死と復活にまで繋がるものであるので、クリスマスを単なる喜びの季節で終始するのか、それとも本当の喜びを見出す時とするのか、私たちは大いに問われている。心してこの季節を過ごしたい。
1、今朝は、救い主誕生に関する預言の言葉の一つ、イザヤ書7章14節に目を留めてみたい。その言葉は、「処女降誕」を告げるものとして知られていて、処女マリヤが男の子を産んだことは、その預言の成就として受け留められている。(マタイ1:18-25)この預言がどのような状況で語られたのか、そして神ご自身は、その時何を告げようとされたのか、そのことを探ってみたい。預言者イザヤは、この時、神から遣わされ、アハズ王の前に立っていた。イザヤは、何故か幼い自分の子を連れていた。王と対決する預言者が、子連れという奇妙さは何なのか、それも気になる。神は何を伝えようとされたのか。彼が遣わされたのは、国が滅ぼされるかもしれないと、王が激しく動揺した時であった。北の大国アッシリヤに対抗しようと、北イスラエル王国とアラム(シリヤ)が南ユダ王国に同盟を持ちかけたものの、アハズ王はこれを拒否して戦争となり、イスラエルとアラムが同盟してユダを攻めたが、勝利することなく引き上げた後のことであった。引き上げた筈のアラムとイスラエルが、尚も留まっていると聞いて、アハズも民も動揺したのであった。(1〜2節)終わった筈の脅威がまだ去らないことに、王の心は激しく騒いだのである。
2、イザヤは王の前に立ち、神からの言葉を告げるよう命じられた。神、主の言葉は、「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません」であった。今こそ「わたし、主を信頼し、主を待ち望め」と、神はそのように語っておられた。神の民にとって、主が共におられること、主ご自身が戦いに勝利されることは、繰り返し明らかにされたことである。神の民の歴史を思い起こすなら、自明のことであった。アラムもイスラエルもやがて滅びる運命にあり、神はもう彼らを退けていることを告げ、信ずべきは「わたし」であることを知らせておられた。(3〜9節)ところがアハズは、決して信じようとしなかった。それで主は、再びイザヤを遣わされた。アハズ王は、主の前に心を閉ざし、何も答えなかったものと思われる。彼は主に頼らず、自分の力、また知恵を振り絞っていた。最初に狼狽えたその時、神に心を向けて頼るのではなく、戦いに備えて水場の確保へと急いだようである。(3節)今度は、「あなたの神、主から、しるしを求めよ。・・・」と促されても、「私は求めません。主を試みません」とまで、開き直っている。(10〜12節)神ご自身が働いて下さる、確かな「しるしを求めよ」と、そこまで主が歩み寄っておられた。けれども彼は、それを拒んだ。まだ自分でやれる・・・と強弁していた。彼は神に頼らず、アッシリヤに頼ろうとしていたのである。(※列王第二16:7以下)
3、その時に語られたのが、14節の預言の言葉である。神が何をしようとしておられるのか、神の成さる不思議を心に留めるようにと。人の目に絶望と見える時、人が何も成し得ない時、神ご自身は全くの不思議を成さることを知りなさいと。(13〜14節)神は人の思いを超えた不思議を成さること、そして生まれた男の子を「インマヌエル」と名付けること、これらにより、神がいついかなる時も、ご自身の民と共におられることを思い出すよう、迫っておられたのである。そのメッセージは、聖書を一貫して流れているものである。そして、神が共におられることを、誰もが驚くような形で実現すると、そのようにも告げていた。更にそのことを悟らせるように、すぐ近くに実現することにも触れていた。「この子」「その子」(15、16節)は、イザヤの子「シェアル・ヤシュブ」を指してもいたのか、その子の年頃になるまでに、事が起こることを暗示したのかもしれない。今迫っている危機はもうすぐ去る、そして、そのことは「アッシリヤ」によるもので、頼ろうとしたその「アッシリヤ」が脅威となるのは、もうそこに近づいていると気づかせたかったのである。(17節、二年後にアラムの王レツィンとイスラエルの王ペカは暗殺される。)本当に頼るべきは神お一人であり、神である主が、その手を差し伸べ、民を守り導いて下さることに心を向けること、そのことは普遍の真理であることを示すのが、この預言であり、「インマヌエル預言」だったのである。
<結び> 危機に直面して、人はどのような行動を取るのものであろうか。アハズ王は国家存亡の危機に際して、この世で力ある王、力ある国に頼ろうとした。しかし聖書は、繰り返し繰り返し、主を待ち望むことを教えている。「静かにしていなさい。恐れてはいけません。」それは神を待ち望んで、神が共におれる所に、しっかりと立ちなさいとの戒めである。目の前の危機に動転しても、その危機は必ず過ぎ去るものである。大事なことは、いつも主を待ち望む、その信仰であり、その生き方である。「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる」と言われる通りである。(イザヤ40:31、30:15-18)
待ち望むことは、私たちも大事と知りつつ、とても難しいと感じることでもある。しかし、クリスマスのメッセージの一つは、「待ち望むこと」であると、改めて心に刻みたい。イザヤの時代、神のみ業が数年の間に成ることを通して、およそ700年後のことも信じるように、預言の言葉が語られていた。その預言が、主イエス・キリストにおいて実現したことを、私たちは聖書を通して知らされている。私たちは、アハズ王以上に、神の言葉が必ず成ることを信じられる、そんな時代に生かされている。だから、今生かされている所で、何事にも「主を待ち望むこと」を身に着けたいと願わされる。主を待ち望む者に、主は必ず答えて下さることを信じて・・・
※今朝の洗礼式、そして転入会式は、主を待ち望んだその答えの一つと確信する。当事者はもちろん、家族や友人の祈りが答えられたのである。まだ祈り続けている、答えはまだもらっていない・・・と言う人もいるに違いない。その人は、尚も待ち望むのであるが、望みを見失わないため、神が共におられるとの約束を忘れず、祈り続けるようにと、毎年クリスマスやイースターによって励ましを頂くのである。主が生きて働かれる時、私たちは真の幸いに与っていることを心から感謝したい。
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