礼拝説教要旨(2012.11.25)
今、教会のなすべき務め
(テモテ第一 2:1〜7)

 伝道集会を終え、クリスマスを前にした時、日本の社会は総選挙に向かう、やや異常な年末を迎えようとしている。伝道集会では、「人よ。何が良いことなのか」との、主からの問い掛けを心に留め、み言葉に耳を傾けた。生ける真の神の前に、私たちは常に問いただされながら、み心に叶う歩み続けるよう求められている。今朝は、この時期に何を思うのか、また何をするのか、そして教会がこの地に建てられ、今ここに置かれている意味を問いながら、使徒パウロの手紙の一端に目を留めてみたい。そこには、神ご自身のみ心が明らかにされており、また教会が何をするよう求められているかが示されている。私たちは、その教えに聞き従うことを導かれたいのである。(※同じ聖書個所から、2010年8月29日に説教しているが、思いを新たに耳を傾けたい。)

1、使徒パウロの手紙は、諸教会宛のものの他、個人宛のものがあり、いずれも、「キリスト・イエスの使徒パウロから、○○へ」と、その書き出しが明快である。そして、受け取り人について、その人の置かれた状況や課題をよく知った上で、その手紙を書こうとしていた、そんな心遣いがひしひしと伝わるものがほとんどである。この手紙は、そのパウロが、「信仰による真実なわが子テモテへ」と宛てたもので、信仰の先輩と言うより、父と子の関係を思いながら、若くて、まだ助けが必要と思われるテモテに対し、そのテモテを励まし、力づけるにはどうするか、そんな心配もしながら書き送っていたものと思われる。テモテは当時、エペソの教会を任されるようになり、その群れを牧会する責任を懸命に担っていた。パウロはそこに駆け付け、一緒に労したいと思う程であったが、事情が許さず、祈りと手紙で支えるのであった。紀元第一世紀後半となり、教会を取り巻く状況は、外からも内からも緊迫していたからである。パウロ自身、ローマでの囚われを経て、一時自由となったその頃、この手紙を書いたと考えられる。(※約2年のローマ幽閉:61-63年、その後の解放:64-65年、投獄と処刑:66-68年、第二の手紙執筆は、67年頃獄中から。)

2、1章は挨拶に続いて、テモテへの励ましの言葉が記されている。教会の中に入り込んでいる偽教師についての警告と、パウロ自身の証しを記し、惑わされず務めを果たすよう励ましている。そして2章から本論となる。教会がこの世にあって責任を果たすため、先ずは「祈り」から始めるようにと勧めている。しかも「すべての人のために」と言って、祈りは普遍的であることに目を向けさせ、その上で、「また王たちとすべての高い地位にある人たちのために」と、教会の内に目が集中するのでなく、外に目を向けさせようとしている。何故そのように祈るのか。「それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです」と、誰もが「敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすため」には、この世が、この社会が安定していることが、何にも増して大事なことと言い切るのである。教会が自らの聖さや正しさを追い求める時、勢い正し過ぎることがあり、他の一切を排斥する傾向に陥りやすい。だからこそ、先ずは「すべての人のために」祈ること、「また王とすべての高い地位にある人たちのために」と言って、この社会の秩序を保つ責任を担っている者たちのために、「願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい」と勧め、教会の務めは、何よりも「祈り」であると明らかにしたのである。(1〜2節)

3、「そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」(3〜4節)教会が祈ること、神の民が神に祈りをささげ、「すべての人が救われ、真理を知るようになる」ため、この地上の社会が安定していることを願うのは、実に神のみ心に叶ったことなのである。その点で為政者たち、「王とすべての高い地位にある人たち」のために祈ること、「願い、祈り、とりなし、感謝」の全てを込めて、祈りを篤くすること、これは神ご自身が願っておられることである。祈ることは、神が教会に託された大切な務めである。時に為政者たちは暴走する。その暴走に気づいて、彼らのために祈るのは、この世にある教会の務めと思われる。そのように考えると、今この日本の社会において、改めて私たち教会の務めは何なのか、そして私たちは何を大事にし、何を神から託されているのか、よく考えなさいと、そのように問われているように思う。いろいろな責任があり、務めは様々である。けれども、「そこで、まず初めに、このことを勧めます」と言われること、それが「すべての人のため」の祈りであるなら、そのための祈りを篤くしたい。また「為政者のため」に祈ることも求められているなら、今まで以上にそのために祈ることを導かれたい。救いに導かれる人が起こされるために、そして、私たちを含めて、今この世に住む人々が、心に平安を得て日々を歩むためには、この社会が安定していること、平安であることは、欠くことのできないカギだからである。

<結び> 「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」(5〜6節)この言葉は、当時の教会の信仰告白の言葉として、洗礼式の折などに告白されていたものと考えられている。キリストが十字架で罪の代価を支払って下さったことを、全ての人が信じて救われるよう、神は願っておられるのである。パウロはそのために使徒となって、その福音を宣べ伝えていたのである(7節)その働きが前進するためには、当時の社会が安定していることの大事さを、パウロ自身が痛感していたものと思われる。

 私たちの社会の、今の状況はどうであろうか。社会が安定しているとは言い難い。多くの人がそのように指摘し、実際に混乱が増していると思われる。時代は逆戻りしかねず、社会全体が窮屈になり、自由が制限されつつあると感じる。紀元一世紀の後半と比べるのは無理であるが、いつの時代も、神に背く社会の悪さ、邪悪さは凄まじいものがある。けれども、キリストの教会と、そこに連なる神の民は、「地の塩」また「世の光」として、神ご自身から期待され、果たすべき務めを託されているのである。その大切な務めの一つが、「すべての人のために」祈ることであり、「王とすべての高い地位にある人たちのために」祈ることであるなら、私たちは、その尊い務めを心から果たさねばならない。しかし、なかなか果たし得ていない自分がいると気づかされる。

 来月、総選挙が行われる時、福音の証し、宣教の業の前進を神が望んでおられることを覚え、この社会の安定と平安を私たちも願って、先ず祈りをささげ、その日を迎えたいと思う。今まで以上に、そのために祈りたいと思う。祈りには、「とりなし」と「感謝」も含まれていることを思うと、視点が開ける思いがする。政治に対する「不平」や「不満」が、ついつい多くなり、「感謝」もせず、増して「とりなし」など思いもつかないでいたことを、反省することしきりである。私たちが祈ること、そして教会が祈ることを、神ご自身が願っておられ、それを喜んでおられるなら、私たちはその神のみ心に添いたいと、心から願わされるからである。