礼拝説教要旨(2012.11.18)
まだ占領すべき地が
(ヨシュア記11章23節〜13章7節 枝松教師候補者)

 ヨシュア記において、1章から11章までは、主要な征服記事が語られ、12章では占領した王たちの記録、いわば戦勝報告が語られ、13章ではいよいよ相続地の詳細な割り当てが語られることになります。しかし、今日の箇所は違和感を覚える箇所であります。何故なら、11章23節で、その地をことごとく取り、その地を相続地として分け与えた、その地に戦争はやんだ、とあり、12章では討ち取った王達の名前が列挙され、戦勝報告が語られているのにも関わらず、13章では一転して、「まだ占領すべき地がたくさん残っている」と言われているのです。
 これから後、イスラエルがいまだ占領していない地を攻め取っていくことが残っているのに、戦争がやんだと言われ、完全に攻め取っていないのにも関わらず、完全に攻め取ったような勝利の報告がなされているのです。

1. このことは、ヨシュア記を通して語られている「すでに」と「いまだ」という相反する事柄であり、これらは、主イエスキリストの勝利と、私たちの信仰の歩みをよくあらわしているものです。
 思えばヨシュア記1章3節においても、いまだ戦争が始まっていないのに、最初から「あなたがたに与えている」と主が宣言されていました。いまだ攻め取っていない地を、すでに「与えられている」地として、イスラエルはカナンを占領していったのです。これは今日の箇所に限らず、最初から勝利宣言が主からなされていたことになります。他方、13章6節にある「その地」をイスラエルに相続地としてくじで分けよ、という言葉もそうです。この「その地」とは、文脈から見ると「まだ占領していない地」を指しています。通常土地の割り当ては、勝ち取った土地を分けるために行うものですが、この6節は、すでに占領した土地だけではなく、いまだ占領していない土地をも、すでに与えられたものとして、勝ち取ったものとして割り当てなさい、との主の命令でもあったのです。しかし、その地に入って、そこに住むためには、当然その地を占領していく必要があります。そういった意味で、6節は、いまだ占領していない地をも、すでに勝利し、与えられたものとして割り当てをし、その地に入っていき、その地を攻め取り、そこに住みなさい、という命令でもあります。これらの二つの事柄には、「すでに」と「いまだ」が存在しています。すでに勝利しているのにも関わらず、いまだ占領することが必要である。ヨシュア記全体を通して、すでに主が勝利し、与えられた土地として、いまだ占領していない土地をイスラエルが占領していく、そのことが語られているのです。

2. この「すでに」と「いまだ」は、私たちの信仰の歩みにおいても存在しています。私たちは、主イエスキリストが、十字架によって、私たちの罪に完全に勝利してくださったことを知り、信じている者たちです。しかし他方、私たちは、罪に対する勝利が与えられていても、罪を犯してしまう者たちで、この地上で自らの罪との戦いがいまだ残されていることも知っています。つまり、イスラエルの勝利は、私たちにとって、すでに与えられているキリストの勝利を指し、イスラエルがこれからも戦っていく必要があることは、私たちにとっては、いまだ私たちが自らの罪と戦っていく必要があることを指しているのです。私たちには、キリストの十字架のゆえに勝利が与えられていますが、「まだ占領すべき地」が私たちの中にもあることは事実なのです。そういった意味で、私たちもまた、「すでに」と「いまだ」の中に生きている者たちで、勝利が与えられているにもかかわらず、未だに自らの罪と戦っており、天の国での完成を、この地上での歩みにおいて、目指している者たちなのです。

3. ここで描かれている、神によってすでに勝利した、と言われていることが、人間の目には、いまだそのようになっておらず、人間の側で、いまだ戦うことが残っていること、これは大変に大きいテーマです。なぜ主は、私たちに戦いをあえて残されたのでしょうか。何より、この「いまだ」には一見、人間の行いが必要に見える、という一つの落とし穴があるように見えます。これらは私たちを迷わせやすいものです。私たちは、通常、自分の行いによって、何かを得ようとします。何かを得るために、努力することは、人間の営みの上で、ある意味当然のことです。ですが、私たちは、自らの罪と戦っていく時にも、それと同じように、自らの力で、行いで、罪から勝ちを得ようとしてしまうことが多々あります。しかし私たちは罪に対して無力です。けれども、私たちのうちに「まだ占領すべき地」が残っており、私たちに、罪との戦いが残されているのも事実である以上、戦いは確かに今も存在しています。それでは、自分の力ではなく、戦う、とはどういったことなのでしょうか。
 13章6節の主の言葉には、土地を割り当てする前に、「わたしは彼らをイスラエル人の前から追い払おう。」との主の約束が語られ、その上で、「あなたはその地をイスラエルに相続地としてくじで分けよ。」という言葉が続いています。これらを言い換えれば、主である私が追い払うのだからこそ、そのことに信頼して、割り当てして、「いまだ」占領していない地に入っていきなさい、ということです。主が戦ってくださるからこそ、主に信頼して、主の言葉に従っていくこと、それこそが、イスラエルに求められていたことだったのです。
 主が戦ってくださる、主が追い払ってくださる、このことは、私たちにも当てはまります。何故なら、私たちは罪に対して無力ですが、私たちの罪に対して、勝利できる方は、主しかおられないからです。つまり、私たちもまた、自らの罪との戦いの中、主が戦ってくださり、主が打ち勝ってくださるからこそ、その主に信頼して、主の言葉に従っていくことこそが求められているのです。換言すれば、すでに与えられた主イエスの十字架の勝利を信じ、主のみが勝利を与えることができる方だと信じて、いまだ残る自らの罪に対して、主の言葉に従っていくこと、それこそが私たちの戦いなのです。そういった意味で、主が「すでに」勝利を与えているのに、私たちにも「いまだ」戦いがあえて残されていることは、あくまで主の勝利と主の言葉に、私たちが信頼して、生きることができるようになるため、つまりは、私たちのため、であります。

結び. しかし、それを聞いても「はい、そうですか」とはいかず、「こうあるべき、こうである」といわれても、そのようになれないからこそ、私たちは苦しみを感じ、罪との戦いにも負け続けてしまう、罪深いものたちです。
 だからこそ、自分の力ではなく、御言葉によって、絶えず力づけられる必要があります。そんな意味で最後に注目したい御言葉があります。それは、ヨシュア記13章6節の言葉、それも「ただ」という言葉です。相続地として、くじで分けるということは、主が与えているその地を、相続地として分けて与えよ、ということです。ここで主はヨシュアに、「命じられたとおり、ただイスラエルに、分けよ」と言っています。これは、イスラエル側からすれば、主の命じられたとおりに、ヨシュアが分けたとおりに、「『ただ』その地を受け取りなさい」と言われていることに等しいです。相続地を彼らが受け取っても、占領していくことが残っていますが、それはあくまで勝利の約束がなされ、主が戦われることでありました。同じように主は、私たちにも、自らの相続地、天の国を、ただ受け取りなさい、と言われているのです。確かにそこに、罪との戦いが待ち受けているのは事実ですが、主の戦いを、十字架上で勝利を与えてくださったイエスキリストを私たちは見ているのですし、私たちの歩みを完成へと導くのは、私たち自身の力ではなく、あくまで神様の御業なのですから、何を疑うことがありましょう。ただ、その地を、信じて、受け取っていきたいものです。 
 そういった意味で、今日の箇所は、先ほど出てきた「すでに」「いまだ」だけではなく、「ただ」を加えると、よりわかりやすくなります。「すでに」勝利し、与えられている地だけれども、「いまだ」占領すべき地がある。しかし、主が戦い、勝利し、完成させてくださるのだからこそ、「ただ」それを主に信頼して受けよ、となるのではないでしょうか。
 私たちは、自らの内に「まだ占領すべき地」が残っていることは十分自覚しつつ、その地を、ただ受け取りなさい、と言われていることを、疑わずに信じて歩むことができる幸いを確かめて、この地上での歩みを完成に向けて歩んで生きたいものです。