「人よ。何が良いことなのか」をメインテーマにした伝道集会の三日目、今朝は、主イエスが群衆に問い掛けられたこと、そして彼らに厳しく問い詰めておられる教えに目を留めてみたい。メインテーマの問い掛けは、聖書の中で、常に神が人に問い掛けておられるものである。神に背いた人間が、自分の考えに頼って生きるのは当然としても、神を信じていても、自分勝手な礼拝をささげ、弱い者を退け、自分だけが満足する、そんな誤りを繰り返しているからである。いつの時代も、神がおられ、神が全てをご存知と知って、神の前にへりくだること、その大事さを思わされる。(※ミカ6:8)
1、ルカ12章1節以下、主イエスの周りにおびただしい群衆が押し寄せ、教えを聞こうと集まっていた時のことである。先ず弟子たちに語られ、群衆もその教えを聞きながら、いろいろ思いを巡らせていた。群衆の中から質問する者がいたり、また主イエスは弟子たちに向かって、大切な教えを語ったり、主ご自身、教えを聞かせる対象をはっきり意識しておられた。そして弟子たちに、「わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。・・・」と語り、更に「あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。・・・」と、終わりの日の裁きに気づかせようとしておられた。その上で群衆に向き直り、問い掛けておられたのである。「『あなたがたは、西に雲が起こるのを見るとすぐに、「にわか雨が来るぞ」と言い、事実そのとおりになります。また南風が吹き出すと、「暑い日になるぞ」と言い、事実そのとおりになります。』」(54〜55節)
そして「偽善者たち。あなたがたは地や空の現象を見分けることを知りながら、どうして今のこの時代を見分けることができないのですか。また、なぜ自分から進んで、何が正しいかを判断しないのですか」と、厳しく問い詰められた。(56〜57節)「偽善者たち」との呼び掛けは、極めて激しいものである。天候の変化は見事に見分けながら、今のこの時代を見分けられないのは、一体どうしたことか。また自ら何が正しいかを判断しないのは、どうしてなのか。分かっていて判断を避けようとしているのでは・・・? 現代においても、よく似たことがある。天気予報に加えて、花粉予報や熱中症の注意予報、そして電気予報まで知らされながら、何か一番肝心なことは考えないよう仕向けられている。本当に考えるべきこと、真剣に判断すべきことを見失ってならないのである。
2、「今のこの時代を見分けること」、また「自ら進んで、何が正しいかを判断すること」は、今、人が住み、生活を営んでいるこの時代が、神の目にどのように判断されるのか、神の前に何が正しいとされるのか、その一番大切なことを、脇に追いやってはならないということである。言い換えれば、今の時代の悪さ、邪悪さをはっきり知ることであり、それに目をつぶってはならないのである。もし聖い神の前に、罪あることを認めず、悔い改めることもないまま歩むなら、最後に行き着くのは裁きであり、滅びである。今この時に、罪に目が開かれ、悔い改めること、それこそ今成すべき最も大切なことなのである。「あなたを告訴する者といっしょに役人の前に行くときは、途中でも、熱心に彼と和解するよう努めなさい。そうでないと、その人はあなたを裁判官のもとにひっぱって行きます。裁判官は執行人に引き渡し、執行人は牢に投げ込んでしまいます。あなたに言います。最後の一レプタを支払うまでは、そこから決して出られないのです。」(58〜59節)
今の時代が、ありとあらゆる悪が満ちて、それに取り囲まれている現実は、悲しむべきことで、心が痛むことであるが、同時に目を覚まし、心して見極めるなら、何が間違っていて、何が正しいのか、悔い改めへの道筋が見出せるのである。ぼんやりしていると、天気予報などには真剣になっても、自分の生き方そのものには無頓着で、いい加減な態度をとるようになる。物が溢れ、本当にこれで良いのか、人々の心は探られる。ただ利益を追求するだけで、果たして良いのか、戸惑いが生じている。立ち止まって、本当に大事なことは何か、今、ここで、生き方を変える必要はないのか、私たちも真剣に考えるよう、問われているのである。
3、それでも、今の時代は尚、今まで通りを選ぶかもしれない。尚も物質的に栄えることを求め、多くの人が悪に誘われ、悪に染まって、その流れに身を任せようとするかもしれない。事実、この世界の歴史は、同じことを繰り返している。個々の国の歴史も同じようである。旧約聖書の時代、神の民イスラエルの歴史がそうである。物質的に栄えると、民の心が豊かになるのかというと、そうではなく、かえって心が荒み、退廃して破滅に向かった。ギリシャ、ローマ、スペイン、ポルトガル、イギリス、アメリカ、日本、韓国、中国、インド、東南アジア諸国・・・。今や世界中が危機に瀕している。聖書は一貫して、時代の悪さを警告し、その悪い時代は、確実に神の裁きに向かって進んでいると主張している。そして裁きの日を迎えたら、もう悔い改めの時は残されてはいないのである。
(マタイ12:39、16:4、カラテヤ1:4、エペソ5:6、6:13、ピリピ2:15、コロサイ1:13)
罪の悔い改めは、だれがするのか。他の人の罪を咎め、その人に悔い改めを迫るのだろうか。私たち一人一人が、自分のこととして、今のこの時代を見分け、自ら進んで、何が正しいかを判断し、そして悔い改めること、それが求められている。もし時代の悪さに気づかずにいるなら、その中に沈んでいる自分の悪さにも、自分の罪にも気づかないであろう。けれども、もし少しでも気づくことがあるなら、その時が悔い改めのチャンスである。神ご自身が、私たちに声を掛け、大事な気づきを与えて下さっているからである。(ヘブル3:7-8、15、4:7)主イエスはこのように人々に教え、また弟子たちに教えておられた。そして、罪を悔い改める者に確かな救いを与えるため、十字架で身代わりの死を遂げられた。罪に対する裁きを身に負って死ぬことによって、信じる者の罪の赦しを約束された。私たちを愛して、私たちが罪を離れ、神の前に正しく生きるよう、十字架で死なれたのである。
<結び> 一昨年の東日本大震災とその後の原発事故は、日本中のほとんどの人に、世界はこのまま滅ぶのではないかという程の恐怖をもたらした。そして、今後も、大地震が日本列島を襲うことが心配されている。そのための備えは必ず必要となる。けれども、主イエスはたましいのために備えるのは、もっと大事と言われた。(ルカ12:4-5、20-21)そして「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」と言われている。(テモテ第一1:4)生ける真の神は、私たちに、今のこの時代を見分け、何が正しいかを判断して、裁きが迫る前に、罪の悔い改めへと進むよう願っておられ、今こそ悔い改める時と、招いて下さっているのである。
既にクリスチャンとして歩んでいる人には、再び悪い時代の流れに呑み込まれることのないよう、警告も発しておられる。今のこの時代を見分けられず、何が正しいか判断できなくなることがないようにと。もし私たちが時代に呑み込まれるなら、悪は益々はびこり、時代は荒む一方となる。そして、現実はとても怪しげである。罪の中にいる人々の救いのため、私たちが祈り労することは、今とても大事なことである。また世の中の事柄にも関心を示して、果たすべき責任を果たせるよう祈りたい。主イエスが十字架の死をもって成し遂げられた救いを、心から感謝し、この救いの恵みを多くの方と共に喜び、その証しのために歩み続ける教会とならせていただきたいものである。
|
|