「人よ。何が良いことなのか」をメインテーマにしての伝道集会、一日目は「暗くなった人の心」とのタイトルで、神を忘れ、神を無視して生きる人間の心が、かくも暗くなっている事実を覚えながら、神に立ち返る生き方を選び取りたいと、そのように聖書から学んだ。その続きではないが、私たちを取り巻くこの世界、この社会というものが、やはり神を忘れ、神とは無関係に物事が進んでいる事実があり、そのために、現実の社会がとても歪んでいると、そのように感じることから、先ず考えてみたい。
聖書は、繰り返し「人よ。何が良いことなのか」との問いを発しながら、神に立ち返ることを勧め、人の心を見る神がおられると教えている。ところが人は「神はいない」と、自分を誇って、常に他の人との比較や競争に明け暮れる。その傾向というか、本質というか、それは本当に厄介なものである。それが一番良いと思うからだろうか、そのために人の心が荒み、実に様々の問題を引き起こしていても、その矛盾には気づけないでいる。経済の仕組みしかり、政治の仕組みしかり、ありとあらゆる所で競争があり、強さばかりを競って、弱さを退ける。「良いこと」「正しいこと」をしようとしながら、結果的に「自己中心」で「私利私欲」に走るという、悲しい結末を迎えても、決して止めようとしない。※「国益」とか「公共のため」との言葉の怪しさ・・・
1、2011年3月11日の東日本大震災に、私たちは途方もないない衝撃を受けた。それに輪を掛けるように福島第一原子力発電所の事故があり、世界中を恐れと不安の中に閉じ込めてしまった、というのが今の現実の世界であろう。一昨年の事故以来、自分なりに考えを整理するよう導かれ、原発に関する本を読む中で、小出裕章氏の言葉がとても心に迫っている。小出氏は「原発は弱い人たちを犠牲にするシステム」、だから「反対」すると言われる。原発の推進は、人間の驕り高ぶりであり、事故は驕りに対するしっぺ返し・・・とも。更に、「自分より弱い者の尊厳を認めて生きる」、そういう「生き方」が人の「優しさ」と。そして「優しさ」を、子どもたちを守ることにこそ向けねばならないと、強く主張しておられる。グサ!グサ!と胸を刺される思いがする。強さや競争を追い求める中では、決して見出せない視点である。競争するばかりの社会は、弱い者を切り捨て、
ひたすら先へ先へと向かうからである。
けれども、強さや競争を追い求める生き方は、イエスの弟子たちの間にもあった根強い思いであったことを、改めて知るとき、人の心は、そんなにも他の人に先んじることを求めるものなのか、驚くばかりである。マタイ18章1節以下はその一例である。彼らは、何度か自分たちの序列を気にしていたが、ここでは、「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょう」と尋ねている。主イエスがエルサレムに向かい、そこで十字架の苦難が待ち受けていると予告しておられた、そのような緊迫した時にも、出世欲や競争心を満足させる答えを期待したようである。ペテロがいつも弟子たちを代表していた事実があり、また特別な時には、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人が選ばれもしていた。だからこそ聞いておきたい、分かって行動したい・・・そんな思いが働いたかもしれない。彼らの心の内には、誰にでもある出世欲や妬み心、ごく当たり前の競争心があり、様々な思いが入り交じっていたと考えられる。(1節)
2、主イエスは、弟子たちの思いを見抜いておられた。「そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、言われた。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どものようにならない限り、決して天の御国には、入れません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。』」(2-4節)主イエスは弟子たちに、考えている目の付け所、心の向きを、根本的に、また徹底的に変えなさいと迫られた。「悔い改めて」とは、「向きを変えて」との意味であり、心がどこを向いているのか、方向転換をせよ!と。
弟子たちは、当時の社会が当たり前とし、多くの人が願うこと、正しいとして追い求めることを、彼らなりに願っていた。それが一番になることであり、だれが一番偉いかを問う生き方であった。けれども主イエスは、もうそれは止めなさい、と言われた。小さくて、取るに足りないと見られていた子どもを真ん中に立たせたのは、自分が子どものような存在として扱われ、退けられたとしても、それでも良しとする、そのような謙遜、へりくだりを身に着けなさいと教えてもおられたのである。天の御国に入れられる条件は、すなわち神が良しとされる、一番大切な心の在り方は、たとえ自分が無価値なものとして退けられたとしても、それに甘んじられるへりくだりの心である。「子どものようにならない限り」、また「子どものように、自分を低くする者が」と言われるのは、そのことである。だれが一番かを問う高ぶり、高慢は、天国に入る人には無関係、全く無縁なもの。高ぶる所に平安はなく、安らぎを求めるなら、神の前にも、人の前にもへりくだることが肝心!と。
3、ところが、私たち人間は皆、自分が小さな子どものような存在であることを、なかなか認められず、もしそのように扱われるなら、とても我慢できないものである。一人前の仕事ができるわけでない子ども、失敗を繰り返すであろう、だれかが助けなければならない存在としての子どもに、自分を重ねるのは、やはり不本意なことである。だから先ず、目の前にいる小さな子どもに目を留め、その子どもを受け入れることから始めよ、と主イエスは命じておられる。「だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きな石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。」(5-6節)
また「子どものように、自分を低くする者」という言い方で、子どもの視点を身に着けるようにとも勧めておられる。他のだれを見ても、立派で尊ぶべき存在と思える、そんな謙遜を身に着けるようにと、命じておられるのである。人が真に謙遜を身に着けるには、心を入れ替えること、心の向きを変えること、それがカギと言える。そして、私たちにとって大事なことは、そのような転換を受け入れるか否かとなる。主イエスは弟子たちに、そのような生き方の転換を求めておられたのである。
結び 主イエスは弟子たちに、そして私たちに、心の向きを変えて、本当の謙遜を身に着けるようにと教えておられるが、ご自身がそのように歩まれ、弟子たちに見習うべき道を示しておられた。主イエスは、仕える者の道を歩み抜かれた。仕える者としての歩みの究極が、十字架の上での身代わりの死であった。ご自分の命を捨て、信じる者の罪の贖いを成し遂げ、罪を赦されて救われる道を開かれたのである。私たちは、主イエスに身代わりになっていただく程の、何か価値があるのだろうか。全くない私たちである。それでも主は、ご自身の愛とあわれみのゆえに、私たちの身代わりとなって下さったのである。私たちは、その愛にお応えすべきではないだろうか。
主イエス・キリストの十字架の死が、私たちに対する愛とあわれみの御業であり、主イエスがそこまで私たちの救いのためにご自分を低くされたことを知る時、私たちも自分を低くし、へりくだることを学び、主イエスのお姿に倣いたいと、そう願わされる。本当の意味でへりくだることを学び、競争から解き放たれて平安をいただく、そんな日々を歩ませていただきたいと思う。 |
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