礼拝説教要旨(2012.11.09) =伝道集会T=
暗くなった人の心
(ローマ人への手紙 1:18〜25)

 今年の伝道集会は、「人よ。何が良いことなのか。」をメインのテーマに、三日間、聖書に耳を傾ける予定である。今のこの時代、多くの人が行く先を見失い、先行きの不安に押し潰されそうになりながら、何とか必死に生きている、そんな様子を見せているのは、日本だけではないようである。世界中が経済的な不況に、また主義主張の対立に襲われ、混乱している。その状態が慢性化し、本当の大変さは、もう誰にも分からなくなっている、それが現実かもしれない。実は日本が一番大変なのにも拘わらず、ぼんやりしているのでは・・・と、そんな心配も思い浮かぶ。

いきなり、そんな不安をあおることは言わないで・・・と、そう思われるかもしれない。けれども、一昨年の東日本大震災と、それに続く原発事故、更に国会の機能停止状態、不況の深刻化など、私たちの生活はギリギリのところに追い詰められていると、多くの人がもう気づいているのではないか。今こそ何が大切なのか、何を大事にして生きるのか、私たちは問われていると思う。また私たちは何を見誤り、何を間違えたのか、そんな反省もしなければならないと、そうも思う。そのような思いで、先ずローマ人への手紙の1章、使徒パウロの言葉に目を留めてみたい。

1、ローマ人への手紙は、パウロが記した手紙の中で最も体系的であり、イエス・キリストの福音が詳しく丁寧に記されている。イエス・キリストの十字架と復活により、神の前に罪ある者が、その罪を赦され、救われる恵みを受けるようになったこと、この救いの恵みをローマにいるあなたがたにも伝えたい・・・と、パウロは手紙を綴っていた。しかし、福音を伝えたいと思えば思うほど、世の人々の心の頑なさが思い浮かんでいた。神を信じて救いの恵みに与ることの素晴らしさ、また確かさを思うと同時に、神に背を向けた人間の姿、現実の罪の凄まじさに、心を痛めるのである。

 神に背いた人間の、その姿は、「不義をもって真理をはばんでいる」という深刻なもの。そこから「あらゆる不敬虔と不正」が生じるのであって、そこに「神の怒りが天から啓示されている」と断言する。人は、神について何も知らないのではなく、知っていながら、それを認めようとせず、かえって目を閉ざし、心を閉ざしている。それが人の現実の姿であると言う。「弁解の余地はない」までに、神が神であられることは、「被造物によって知られ、はっきりと認められる」とも言い切っている。すなわち、人の心は暗くなり、無知なまま沈んでしまったと言うのである。(18〜21節)

 2、神を知っていながら、「その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました」という、その人間の心の暗さ、そして愚かさは、「不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似たものと代えてしまいました」と指摘されるように、あらゆる偶像礼拝に現れている。神を仰ぎ、いかにも信仰心を表しながら、神を滅ぶべきものの姿に閉じ込め、それで良しとする、そんな愚かさを見せるのである。真の神ご自身は、それならそのまま、人を「その心の欲望のままに汚れに引き渡され」たので、人の汚れは益々加わり、「互いにそのからだをはずかしめるようになり」、偶像礼拝には、あらゆる性的な乱れがつきまとうことに
なった。「神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えた」偶像礼拝の愚かさ、醜さ、その汚れ、それらは世界中にはびこっている。実態の凄まじさは、余り知りたくもない、聞きたくもないものである。

人が自分を賢い者とし、知識にも能力にも優れていると、そのように自覚すること、その全てが、必ずしも間違っているというわけではない。神のかたちに似せて造られた人間には、優れた能力が与えられており、素晴らしい知恵と知識も、神から与えられている。しかし、最初の人アダムが、神に背いたことにより、人は神に並ぼうとし、神なしで良しとする、そのような生き方を選び取ってしまった。その結果、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったのである。自らを知者と称して憚らず、「神はいない」とうそぶく。しかし聖書は、その人を「愚か者」と言うのである。(詩篇14:1)

3、私たちは、聖書がこのように教えていることに対して、どのように答えたら良いのであろうか。日本という国、この日本の社会は、世界でもかなり特異な社会ではないかと、そのように思うことがしばしばである。宗教心に篤いのか薄いのか、無神論が幅を効かせているようでいて、その実、神社や仏閣が至る所にある。新興宗教は驚くほどの勢いで、何故、どうして・・・と、謎は深まるばかりである。けれども、それらは、もし神が「彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され」たことによるのなら、心穏やかではいられない。26節以下に、「神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。・・・」と、男女の不自然な関係の指摘があり、更に、28節以下、人が「あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者」となり、さまざまの悪に走ったそれら全ては、人が「神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました」と言われる、その行き着くことの一端と気づかされるからである。

 私たち人間の不義の故に、また自らの愚かさや無知の故に、益々罪の深みにはまるとしたら、一体どのようにして、そこから逃れることができるのか。自分では、何もできないことは明らかである。暗くなった人の心は、自力でそこから抜け出すことはできず、その無力を悟る以外に、光を見出すことはない。神の裁きは、全ての人に等しく下される。神が、罪ある者を悔い改めに導いておられることを知ること、その招きに応える者を待っておられると知ることによって、私たちは、初めて光の元へと近づくことができる。使徒パウロは警告する。「あなたは、自分は神のさばきを免れるとでも思っているのですか。それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛
と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」(2:3-4)そして、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」と、十字架で死なれ、三日目によみがえられた主イエス・キリストを信じて、神の前に義とされ救われる道を説くのである。(3:23-24)

結び  私たちが住む今の社会が、甚だしく悪に染まり、人の心が暗くなり、このままで良いのかと思う、そんな事件が毎日のように起こっている。痛ましい報道が続き、恐ろしい位である。人を騙して金品を奪う事件、人の命を脅かし、その命を軽々しく葬り去る事件、果ては警察も裁判所も、真実を見抜けずに冤罪を生み、無実の人が有罪とされる、そんな理不尽が増えている。けれども、人が限界を悟り、神がおられることを知って、神が全てを支配し、人の行いをご覧になっていると知るなら、自ずとその人の生き方は変わるに違いない。すなわち、私たち一人一人こそが、私たちの心の内をご存知の神の前に出て、自分の生き方を神の光によって照らされることを、心から願うべきと気づかされる。私たちは、誰一人として、自分で自分の生き方を正す手だてを持っていない。どう振る舞ったとしても、私たちの内からは、悪い思いや言葉、また行いがほとばしり出るだけである。でも何とかしたい、何とかして欲しいと願っている筈である。(本気で思っているかどうかが肝心・・・)

 今朝ここにいる私たちは、心を静めて神に願おうではないか。この暗い世にあって、しっかりと神を仰がせて下さいと。神の光に照らされることを恐れず、神の前に出て、光に照らされて歩むことができますようにと。また、神がいますことを信じ、神が全てを支配し、私たちに良きことを成して下さると信じて歩む者とならせて下さいと。イエス・キリストを信じる信仰による歩みが、私たちに、何ものにも惑わされず、恐れなく生きる日々を、必ず約束してくれるからである。