礼拝説教要旨(2012.11.04)
罪人を招くイエス
(ルカ 5:27〜32)

 伝道集会を前に、主イエスの伝道の初期の出来事に目を留めようと、前回は、ガリラヤ湖でのシモン・ペテロの経験から学んだ。今朝は、同じルカ福音書5章27節以下、取税人レビがイエスに従ったこと、そしてレビの家での大ぶるまいと、それを巡ってのパリサイ人たちのつぶやき、それに対するイエスの教えに目を留めることにする。この二つの出来事の間に、ツァラアトの人のいやし、中風の人のいやし等、めざましい奇跡を通して、イエスのうわさは、益々広まっていた。主イエスは、奇跡を起こして、人々の驚きをただ引き起こしていたのではなく、ご自分が神であり、人の罪を赦す権威のあることを、はっきり示そうとしておられた。そして、その働きを進める上で、弟子となって共に労する者を、次々と招いておられたのである。

1、シモン・ペテロたちに続いて、「何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った」のは、取税人のレビであった。主イエスご自身が、収税所に座っていた彼に目を留め、「わたしについて来なさい」と、親しく語り掛けて下さったからである。彼は自分の仕事について、悩んでいたのかもしれない。そうした事情は、何も記されていない。けれども、イエスご自身は、何もかも見通しておられた上で、彼を招かれたものと思われる。彼自身も、その呼び掛けを喜び、この方について行こうと、即座に応答したのである。余りに単純すぎるかもしれない。しかし、この時のレビは、このお方に従いたい、今の仕事にすがるのは止めようと、そのように決心したのである。イエスの教えを、彼も聞いていたのに違いない。奇跡のことも知っていたのであろう。この方は神との、確信があったかどうか、まだ不確かだったかもしれない。でも、今この方の招きに従いたい、そのような促しに、彼は答えたのであった。(27〜28節)その応答が間違っていなかったことの喜びや感謝を、彼は、早速「自分の家でイエスのために大ぶるまいをした」ことに表した。仲間を呼んで、彼らをイエスに引き合わせようと、そんな思いを抱いたのである。(29節「盛大な宴会」)

2、「取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた」と記されている。果たして何人が集まっていたのだろうか。「イエスのための大ぶるまい」との記述も、レビの家がかなりの邸宅であったことを暗示している。彼は、ザアカイがそうであったように、不当な蓄財もしていたのかもしれない。その分、仕事仲間以外の友だちはなく、寂しい思いをしていたと思われる。しかし、主イエスに出会い、イエスに従って歩み始めた今、自分の家で、イエスのための「大ぶるまい」をするに当たり、その食卓に仲間を招いたのである。ここに、伝道における大切な原則が明示されている。私たちは、常々伝道の難しさを感じ、誰に福音を伝えるのか、誰を教会に誘うのか、躊躇いを覚えて消極的になりがちである。けれども、主イエスに出会った喜びを忘れることがなければ、その喜びを分かち合う、そのようなきっかけは、きっと身近なところにあるに違いない。そのことを忘れないようにしたい。生活している、その場所で、周りにいる人々に関心を示すこと、主が引き合わせて下さる人に近づき、主イエスの元へと導くことができるようにと、祈りたいものである。

3、ところで、レビの家での「イエスのための大ぶるまい」は、パリサイ人やその派の律法学者たちに、大きな波紋を呼んでいた。その食卓に、彼らがいたとは考えられないが、彼らは遠巻きに、その「大ぶるまい」を苦々しく見ていたようである。レビは仲間たち、あの「取税人や罪人ども」、この町の厄介者たちを集めている。よりによって、イエスは彼らと一緒に食事をしている。とんでもない! イエスは一体何を考えているのか・・・。パリサイ人や律法学者たちは、イエスの弟子たちに向かって、こうつぶやいていた。(30節)彼らは、神の前に自分たちの信仰を誇り、自分で自分を正しいとする、そのような考え方に慣れ親しんでいたからである。取税人や罪人ども、律法を守らず、不正に手を染めている者たちと食卓を共にして、自分を汚すようなことは決してしない・・・と、自負して憚らなかった。しかし、主イエスは彼らの心の思いを見抜いて、答えられた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」(31〜32節)彼らが、自分は正しい、清い、だから汚れた者、不浄な者とは一線を画す・・・と、そう言い張るのは間違いであると、また医者が病人を治すように、「わたしは罪人を招いて、悔い改めさせるために来た」と、明言されたのである。自分には罪があること、聖い神の前に、自分は不完全で、それこそ病人そのものであると気づいている人々を招き、心からの悔い改めを迫るためにこそ、主イエスは来られたのである。

<結び> そのための食卓の交わりは、単なる食事の交わり、楽しい交わりというものではなかった。「正しい人」ではなく、「罪人を招いて、悔い改めさせる」、そのための場として、その食卓、「大ぶるまい」が用いられていたのである。主イエスと共にいるのは、単なる楽しい一時、心ウキウキする時、というのではなく、心を探られ、心の底から変えられるので、人によっては、心穏やかではいられない、そんな交わりでもあった。(ザアカイがそうであり、彼は悔い改めた。※ルカ19:8〜10)でも、その交わりを経て、悔い改めを経験した者は、いよいよ主イエスと共に歩む日々を喜び、感謝する者に変えられる。取税人のレビは、そのように変えられた自分を見出しつつ、仲間にも同じ経験と喜びを分かち合いたかったのである。

 私たちは、今朝どのような思いでここに集っているだろうか。主イエスに出会い、イエスを救い主と信じる信仰に導かれた自分を見出しつつ、感謝してここにいる筈である。また信仰を追い求めつつ、集っている。いずれの場合も、自分がイエスに招かれてここにいると、そのことをはっきりと知る人は幸いである。そして、自分が神の前に罪ある存在であり、主イエス・キリストによって、その罪を悔い改めるように招かれていることを、自分のこととして受け止めるよう導かれるなら、私たちは真実な礼拝者として、神に受け入れていただけるのである。そのようにして、自分で自分を正しいと高ぶることなく、心を低くして神を仰ぐ、そのような信仰へと、尚も進ませていただきたい。そして伝道集会のために祈り、主イエスのもとに、身近な人を誘うなり、導くなりして、喜びを分かち合うことを導かれたいものである。