一昨年の10月、伝道集会の後から、15章以下、エルサレムでの十字架に向かわれる主イエスのお姿を追いつつ、ルカの福音書を読み進んできた。先週、主イエスが両手を上げて弟子たちを祝福し、そして天に昇って行かれた、最後の記述から学んだ。丁度二年が経過しているが、来月の伝道集会を控えて、主イエスの伝道の初期の出来事に目を留めてみたい。幾つか拾い読みとなるが、今朝はルカ福音書5章1節以下、イエスの弟子となったシモン・ペテロの経験から学んでみたい。彼はその時までに、既にイエスの弟子となっていた。けれどもその日、改めて自分自身の本当の姿を悟らされる、そんな経験をしたのである。その経験は、私たち一人一人にも必要なものであって、全ての人がその経験をするのかどうか、とても大事なことと気づかされるからである。
1、ガリラヤにおけるイエスの初期の伝道は、めざましく進展していた。イエスの評判は、たちまちのように広がり、行く先々で、その教えを聞こうと、多くの人が集まっていた。単なる興味本位の人がいて、しるしだけを求めるなど、主イエスは人々の本当の求めを見抜きながら、その働きを進めておられた。シモンとアンデレ、そしてヤコブとヨハネの漁師たちは、かなり早い時期にイエスの弟子となっていたと考えられる。イエスの弟子として歩みながら、漁師としての仕事もする、そんな時期があった、その頃のことである。「群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸辺に立っておられたが、岸べには小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。」(1〜2節)「イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。」(3節)押し迫る群衆から、少し距離を取れるように舟に乗り、舟の中から、岸辺にいる人々に語り掛けられた。丁度よい距離が保たれ、語る側も聞く側も、落ち着いていられた。
※山上の説教も湖畔の説教も、地形が上手く利用されている。
2、「話が終わると、シモンに、『深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい』と言われた。」(4節)イエスはシモンに、そのように命じられた。彼らがその時、網を洗っていたのは、夜中の漁を終えて、網を洗っていたのであり、もう一度漁をするのは、通常では考えないことであった。しかも昨夜の漁は、思い出したくもない、全くの不漁であった。けれども、この時シモンは、イエスの促しに答えるように、「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう」と、躊躇わずに答えた。「そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。」(5〜6節)このシモンの応答には、もう既にイエスへの畏敬が含まれていたと考えられる。彼は、「何一つとれませんでした」と答えた後、漁師としての自信やプライドを振りかざさなかった。かえって「おことばどおり、網をおろしてみましょう」と、イエスの言葉に従おうとした。そして大漁となり、他の舟の助けを借りるのであった。(7節)シモンの心には、イエスを神と仰ぐ、その信仰が深められていたのである。
3、「これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、『主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから』と言った。それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。」(8〜9節)シモンはイエスを「主」と仰いでいた。イエスを「神ご自身」と認めるまで、彼の心の目が開かれたので、その聖なるお方の前に、自分の罪ある姿をまざまざと見させられていた。それで「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と、そう言う他はなかったのである。聖く、正しい神の前で、自分の罪の深さを思い知らされ、恥ずかしさや面はゆさを覚え、ひれ伏すのである。彼は、舟の中で、ずっとイエスの教えを聞いていた。どれ位の時間が過ぎたのだろうか。主イエスは群衆に語っておられたが、実はシモンたち、既に弟子となっていた漁師たちにこそ、「神のことば」を聞かせようとされたのかもしれない。彼らは群衆よりもっと近くにいて、イエスが語られる教えを聞いていた。その内容や教えの力強さに、シモンたちは心を動かされていたので、「おことばどおり、網をおろしてみましょう」と言い得たのであろう。イエスを神と信じることによって、自分の罪深さも明らかになり、この方にひれ伏すことになったのである。
<結び> 自分が何者で、神の前にどのような存在かを知った者たちを、主イエスは励まし、用いようとされた。ガリラヤの漁師たちに、特にシモンに向かって、「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです」と語られた。(10節)主イエスは、自分の罪深さをはっきりと知ったシモンに、そのように語っておられる。神が用いようとしておられるのは、自分の罪を知る者、罪深さを知った者である。主はそのような者たちを弟子とし、世に遣わそうとされた。ご自身の働きを共に担う者として、彼らを召しておられたのである。「彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。」(11節)シモンは「神のことば」をしっかりと聞き、そして「神のことば」に聞き従って網をおろし、神のみ業に触れ、神である主イエスの前に、ひれ伏していた。神の前で、自分は罪深い者と知って、恥じ入った。恥じ入る他に、何もできなかった。けれども、主イエスはそのように心が砕かれた者を、用いられるのである。私たちも、今一度、神の前に出て、自分が何者であり、どのような者であるかを、神によって探っていただこうではないか。そのようにして、心を砕かれ、神によって用いていただくことをよしとしたい。
私たちは、シモンが告白したと同じように、聖い神の前には、罪に汚れ、自分で自分をどうすることもできない、真に罪深い者である。実際、神に対して罪を犯した人間は、自分が罪あることさえ気づかない、そんな厄介な存在である。自分こそ正しい、神はいないとうそぶく、それが普通である。その人間が、神の存在に目が開かれ、神の言葉に触れる時、心が照らされ、罪の深さを知ることになる。その時、その人の心が砕かれ、神の前にひれ伏すことになる。それは奇跡であり、神の業が成るのである。私たちは、その神の業によって、神を信じる者とされ、自分の罪深さを知らされたのである。いよいよ心を低くして、神に仕え、神によって用いていただけることを喜びとする、そのような歩みを導かれたいのである。
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