礼拝説教要旨(2012.10.21)
手を上げて祝福された 
(ルカ 24:50〜53)

 十字架の死からよみがえられた主イエスは、度々弟子たちの前に姿を現し、彼らを教え、励ましておられた。聖書を説き明かし、聖書が「わたしについて書いてあることは、必ず全部成就するということでした」と、はっきり語られた。(44節)弟子たちの復活信仰は、徐々にではあったものの、確かなものとされ、最早迷うところがないまでに強くされていた。そしていよいよ、主イエスとの、この地上での別れの時が近づいていた。その間、四十日という時間が経過していたのである。「それから、イエスは彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。」(50節)エルサレムから三キロ弱のベタニヤには、マルタとマリヤ、そしてラザロが住んでいた家があり、その村は主イエスとその弟子たちにとって、いつも親しんでいた場所、働きの拠点のような所の一つであった。そこで最後の時を過ごそうとされたのだろうか・・・。

1、正確には、「ベタニヤの辺り」にまで来て、「手を上げて祝福された。そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた」のであり、(51節)天に昇って行かれたのは「オリーブ山」から、と思われる。(使徒1:9〜12)主イエスは、「両手を上げて祝福された」のであって、天に昇り、父なる神の右の座に着く大祭司となるべく、振る舞っておられたのである。(レビ9:22、ヘブル5:8ー10)弟子たちにとって、別離は寂しく、悲しみを覚えるものに違いなかった。ところが、この時、誰も悲しみに沈むことはなかった。「彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。」(52〜53節)彼らにとって、主イエスとの別れは悲しみにはならず、かえって、「非常な喜び」を抱く経験となり、宮にいて、「神をほめたたえて」礼拝することを絶やさない、そんな日々を過ごすことになっていた。主イエスこそ神にいまし、拝すべきお方、この方は、目に見える見えないに拘わらず、いつも共にいまし、上より見守り、導いて下さることを、心から信じる信仰へと、弟子たちは導かれていたのである。

2、使徒の働きによると、復活から昇天までの四十日の間、主イエスは弟子たちに現れて、「神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」(使徒1:3)その時の一つとして、マタイ福音書28章16節以下もあったと考えられる。弟子たちを宣教のために遣わすとの教えである。その教えは、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」と結ばれている。「いつも、あなたがたとともにいます」と約束されても、私たち人間は、目で見ることの確かさや、手で触れる確かさに、どんなにか頼っていると、つくづく思わされる。弟子たちも同じではなかったのではないか・・・。けれども、聖書を悟るように心を開かれ、主イエスの愛とあわれみに包まれて、彼らはもう、迷うことのない者へと導かれていた。変えられ、整えられていたのである。そして「手を上げて祝福された」、その祝福を受けた弟子たちは、「祝福しながら、彼らから離れて行かれた」主を見届けた後、大喜びしてエルサレムに帰ったのである。主イエスを信じる信仰の、一大不思議を見るようである。

3、「手を上げて祝福された」その祝福は、真の大祭司が民を祝福する祝祷の確かさをもって成されていた。(ヘブル4:14ー16、7:24ー25)それは単なる儀式としての祝祷ではない。本当に神が民のために祝福をもたらして下さるように求める、真剣な祈りであった。その祈りが捧げられたなら、神はその祈りを聞き、民に祝福を注いで下さるのである。それ故に弟子たちは、喜びと感謝をもって、そこを立ち去ることができた。しかもその喜びは持続するので、「いつも宮にいて神をほめたたえていた。」旧約聖書の時代も、大祭司の祝福を求める祈り、「祝祷」にはそのような意味があり、また力があった。そして、代々の教会も、礼拝の終わりに「祝祷」を捧げ続け、会衆はその祈りに励まされ、支えられて、それぞれの場へと帰って行くのである。私たちも教会を後にする時、「非常な喜びを抱いて」それぞれの家に帰ることができるなら、真に幸いである。そして家にいても、またどこにいても、どこに行くとしても、主イエスが共におられるとの、確信によって支えられるなら、私たちも、「いつも神をほめたたえる」日々を過ごすことができる。私たちは、そのような信仰を約束されているのである。

<結び> 聖書を神の言葉と信じる信仰について、時に思い違いをすることがある。天に昇られた主イエスと別離した弟子たちが、「いつも宮にいて神をほめたたえていた」と記されていることを、余りにも極端に「いつも宮にいて」、そこから離れなかったかのように捉える必要はない。神礼拝の中心場所として、「宮」「神殿」を大切にしていたのであり、日々の生活を営み、また別の場所でも、弟子たちが集うことはあった。ここで記されていることは、主イエスから祝福を受けた弟子たちが、主と別れた後も、大きな喜びに包まれていたことであり、その喜びの内に、神をほめたたえる礼拝を捧げ続けたことである。主イエスを肉の目で見ることや、手で確かめられる祝福に頼ることなく、主が共におられることを喜び、やがて、自分たちも天に迎えられる望みを抱いて地上で歩むこと、それを良しとしたのである。主イエスが大祭司として、天で執り成して下さっていることを、何ものにも勝る喜びと確信したのである。(ヘブル9:11-14、10:10-18、19-22)

 今日、私たちは、礼拝を捧げ、礼拝の終わりに祝祷が捧げられる時、同じ確信に導かれたいものである。主イエスが両手を上げて祝福されたことを思い、私たちにも祝福を注いで下さること、いつも共にいると約束して下さっていることを心に刻みたい。そして、どこにあっても恐れなく、喜びに満たされて過ごしたいのである。この目で見ることはなくても、共におられる主イエスを信じる信仰、この信仰こそ宝であり、最高の喜びであることを心に留め、礼拝を捧げ続けることが導かれるように!