十字架で死なれた主イエスは、三日目に確かによみがえっておられた。その主が一人また一人と、弟子たちの前に現れ、彼らを信じる者へと変えて下さっていた。それでも、死人の復活は、なかなか信じられない出来事、人の常識では思いもよらないことであった。科学的な知識や、その成果が豊富になった現代だから信じられないのではなく、二千年前の初めから、復活は人には信じられない出来事、躓きとなる事柄であった。ルカの福音書はその事情を記している。そして、主イエスご自身が、弟子たちに丁寧に接して、また愛を注いで、彼らの心を解きほぐしておられた、その事実を明らかにしている。エルサレムで、恐らく、「二階の大広間」にいた弟子たちの真ん中に立たれ主イエスは、彼らの見ている前で、焼いた魚を一緒に食べられた後、弟子たちに話し始められた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。・・・」(44節)
1、主イエスが語られたことは、「わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした」と、これまで弟子たちに教えたこと、それらは、旧約聖書の全体がイエスご自身について書かれていること、その全てが必ず成就することということであったと、改めて語っておられたのである。そのことは、エマオへの道々、そしてエマオの食卓でも語られたことであった。「キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。・・・」(26〜27節)聖書の全体が、キリスト=メシヤの受難と栄光、すなわち復活について書かれているということを、もう一度弟子たちに教えようとされた。そのように約束された通りに、十字架の死からよみがえったこと、復活したことを、彼らがはっきりと知るためであった。しかし、その事実を信じるためには、人の心はどこまでも頑ななので、「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて」、その上で語っておられたのである。(45節)「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」(46〜47節)
2、旧約聖書の全体は、キリストの受難と復活を、更には、それに続く福音の宣教にまで、明らかに告げていたのである。その福音の中身は、キリストの名による「罪の赦しを得させる悔い改め」、言い換えると、「罪を悔い改め、キリストを信じる信仰により、罪の赦しを受けること」であった。神の前に人が自分の罪を認めて、はっきりと悔い改めること、そして、罪からの救い主として十字架に架かられ、三日目によみがえった主イエス・キリストを信じるように招くこと、これが聖書の一貫した福音である。主イエスがよみがえられた今こそ、罪の赦しへの招きが、エルサレムから、あらゆる国の人々に宣べ伝えられることになるのである。主イエスは、弟子たち一人一人をそのために「証人」として遣わそうとしておられた。「あなたがたは、これらのことの証人です。」(48節)彼らが、あらゆる国々に出て行き、イエス・キリストの十字架と復活を宣べ伝えることによって、罪を悔い改めて神に立ち返り、罪の赦しを得て救いに与る者が起こされること、そのように成し遂げられる神の救いのご計画が、聖書全体に明らかにされているのである。弟子たちは、今更ながらに、尊い神の救いのご計画を、主イエスご自身によって教えられることになった。(イザヤ43:1〜7、46:3〜4、8、53:1〜12、55:6〜9)
3、彼らは、自分たちの理解や探求によって、それら全てのことを悟ったわけではなかった。彼らの理解は、主イエスによって「目が開かれ」てであり(31節)、また主が、「聖書を悟らせるために彼らの心を開いて」下さったことによった。(45節)主が「心を開き」、「心の目を開いて」下さることがなかったら、弟子たちの中で誰一人、主イエスのよみがえりを信じることはなかったのである。それ程に「復活信仰」は難しく、人の常識を越えるものなのである。けれども、主によって確かに心を開かれるなら、信じる者とされた弟子たちは、真に幸いな人となり、主によって立たせていただく幸いを受けるのである。けれども、弟子たちは有頂天になることなく、上からの力を得て歩み出すように、エルサレムで、尚その時を待つようにと命じられた。「さあ、わたしは父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(50節)主イエスは、やがて聖霊が遣わされることを告げておられた。弟子たちは、聖霊を受け、その力によって送り出されるのである。福音はこのように、聖書の約束に従い、神の御力によって、証人となった弟子たちの働きを通して、今や全世界に宣べ伝えられているのである。どんなに信じ難いことであっても、神ご自身が人の心を開いて下さることによって、一人また一人、確実に信仰に導かれている。私たちは正しく、神によって心を開かれた幸いな一人なのである。
<結び> 今日私たちが、復活の主イエス・キリストを信じていることは、途方もない不思議であると実感する。自分は何故信じたのか、どのように信じたのか、果たして説明できるのだろうか。何故とか、どのようにということと、「聖書を通して」ということは、切り離せない大切なカギである。聖書を通して、神の救いの約束を知り、主イエスの十字架のこと、復活のこと、その後の弟子たちの福音宣教のことを、私たちは知ったのである。しかし、そこから信じる信仰に行き着くのは、私たち自身の理解にはよらなかった。確かに信じるに至ったのは、神ご自身が心を開いて下さったからに他ならない。この事実は、只々神に感謝し、神を誉め称える以外に、私たちに成すべきことがないと気付かせられる。そして、これからは私たち自身がまた、復活の証人として、世に送り出されていることを思わされる。
私たちは、主によって心を開かれた幸いな者であることを、心から感謝したい。もし心を開かれることがなければ、生まれながらの罪の中に沈んだままで、恐ろしいまでの頑なさのまま、神を恨み、人を憎み、自分の欲の思うまま、勝手な道を歩んでいるに違いない。けれども、底なしの頑なさを持っていた者も、主イエスの愛に触れ、主イエスが私たちの心を開いて下さったので、私たちも罪を悔い改め、イエスを信じる者に変えられたのである。弟子の一人、トマスの経験が記されていることにより、私たちも、復活の主イエスを、この目で見ることなく信じる幸いに与れることを心から感謝したい。神は今も、またこれからも、世の終わりに至るまで、私たちと共におられ、私たちの心を開き続けて、聖書を悟らせ、ご自身のご計画を明らかにして下さることを感謝し、一人一人、確かな日々を歩ませていただきたい。(ヨハネ20:24〜29)
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