礼拝説教要旨(2012.10.07)
自由を隣人を愛するために 
(ガラテヤ5:1〜15 高橋善樹教師試補)

ガラテヤの教会の信仰は、教会に入り込んだ「かき乱す者たち」によって、誤った福音に引きずられかけていました。イエス・キリストを信じるだけでは、不十分でキリスト者でも割礼をうけ、律法を行う生活が必要であるとする考え方に傾きかけていたのです。
 パウロは、今日の箇所であなたがたは、イエス様によって罪から自由にされるために召されてのだから、その自由を隣人を愛するために用いよ、と勧め、自分たちが伝えた福音の真理に立ち返ってほしいと懸命の説得を続けます。

1. まず、キリスト者の自由ついて覚えたいと思います。
 イエス様の十字架と復活を信じて、私たちの罪を追及して止まない律法から自由にされ、罪がもたらしている、死と滅びから自由にされた者がキリスト者です。
 イエス様が、十字架によって私たち罪人の死を死んでくださり、律法の追及を終わらせてくださったからであり、死からよみがえられて、私たちを義(神様の前に正しい者)としてくださったからです。
 そして、この自由は、今は、肉のうちにあり、肉の欲望に機会を与えてしまうかもしれないという、肉の弱さを知り、また世の悪が支配し、惑わし、その流れに飲み込まれる危うさを持ちながらも、神様のみことばとみこころをあえて選び取って行く自由なのです。肉の欲を満たし、この世と歩調を合わせて、自分を満足させる自由ではないのです。
 私たちは、この自由を重荷に感じることはないでしょうか。人間が納得できるものだけを正しいこととし、この世の価値だけを重んじることがなぜ悪いのかと思い、人間を超える、人間が知らないことを選択肢とすることを苦痛に感じないでしょうか。
 もし、苦痛を感じるとすれば、その人は罪がもたらしている、死と滅びから自由にされていない人です。
 人間とこの世だけしか選択肢がなければ、人は空しく死んで土に帰り、天地がやがて滅びるのとともに滅びるだけです。死と滅びとの奴隷以外の何ものでもありません。人の尊厳、まことのいのちはどこにあるのでしょうか。
 神様はこのような人間を良くご存知です。造り主なる神をうらぎり、“神のひとりのようになり、善悪を知るようになった人間”(創世記3:22参照)は、神様との交わりを絶たれ、霊的に死んだものとなったこと、をです。
 私たちは、モーセを通して語られた神様のことばにしたがって、いのちを選び取りたいのです。
「私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。」(申命記30:19)

2. 次に、“信仰によって義とされる”という言葉にをしっかり理解しておきたいのです
 先ほどふれました、5,6節には、「信仰」という言葉が2度出て来ました。パウロは、この言葉におそらく、あえて定冠詞をつけずに、あまりにも当然のこととして「信仰により」(5節)「信仰だけが」(6節)と用いると思われるのですが、このごく当然のことの中身を決して見逃さないことが大切です。
 5節は、「イエス様を信仰することにより・・・」ですし、6節は、「イエス様を信仰することだけが・・・」なのです。パウロは、漠然と「神様を信仰することにより・・・」、あるいは「神様を信仰することだけが・・・」と言っているのではないのです。パウロは、イエス様についてもっと具体的に言っているのです。
 ローマ書にある通りです。
 「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(4:25)
 ですから、パウロは、ガラテヤ書では、「このイエス様を信仰することにより・・・」、「このイエス様を信仰することだけが・・・」と言っているのです。これと同じような、あまりにも当然のことなので、見逃されて理解をあいまいにしている神学用語があります。“信仰義認”です。信仰によって義と認められる、あるいは、信仰が義と認められるという意味です。ここでの「信仰」もイエス様を信じる信仰によって神様に義と認められることです。漠然と神様を信じる信仰によって、というのではないことを覚えたいのです。
 それとともに、パウロは、イエス様を信じる信仰だけが、神様に義とされ、救われる道でありそれ以外の道は全くないこと、このただひとつのことを福音(良き知らせ)として、命がけで伝えた使徒であることを感謝しつつ覚えたいと思います。

3. 自由の喜びを隣人を愛するために用いよ。という勧めを覚えたいと思います
 神様は「自分自身を愛すること」と「隣人を愛する」こととが、同時に起こされるべきことを命じておられます。
 律法と罪から自由にされたのは、イエス様を信じたからでした。しかも、信じることが出来たのは、神様の愛によるお働きによっているのでした(6節)。また、自由にされた喜びを神様に捧げ、神様のみこころに生きることを願うのですが、みこころに生きることも神様が導き、お働きくださるのですから、「自分自身を愛すること」も「隣人を愛する」ことも神様にあっては一つのことであり、同時のことではないでしょうか。
 私たちを、自由にされたように、神様は、私の隣人をも自由にされることがみこころなのです。私たちは、この神様のみこころにあずかり、導かれ、神様が出会わせてくださる隣人に、私を自由にしてくださったイエス様を宣べ伝えることが、「隣人を愛する」ことではないでしょうか。隣人を愛し、神様のみこころに生きることを願いつつ、自由を与えられた喜びと感謝の応答に生きたいと思います。

 最後に、申命記30:6を読みます。
 「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。」