よみがえられた主イエスは、そのよみがえりを信じられないでいた弟子たちを、信じる者へと変えて下さっていた。イエスご自身が、弟子たちに近づいて下さり、彼らの心の目を開いておられたのである。最初は数人の女たちに、御使いが現れ、イエスが語られていた「みことば」を思い出させ、その内の一人には、主イエスご自身が近づき、語り掛けておられた。そしてエマオに向かう二人には、道々、聖書を説き明かし、食卓で「パンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。」彼らは、はっきりと「イエスだとわかった」時、すぐさまエルサレムに引き返した。主イエスのよみがえりを信じたからである。エルサレムでは、「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」との、新たな復活証言が告げられていて、二人もまた自分たちの経験を、喜々として話したのである。
1、初めは半信半疑でいた弟子たちの間に、喜びと期待が高まりつつあったと想像できる。けれども、まだこの時、確かに復活の主にお会いしたのは、シモンとクレオパと、もう一人であり、マグダラのマリヤを含めても四人だけである。彼らがどれだけ証言しても、「幻」や「霊」ではないのか・・・との思いは消せないでいた。そして、何よりもユダヤ人たちの目が気になっていたのである。部屋に閉じこもり、息を潜めるように事の展開を待つ、そんな状況でもあった。そうこうしている時、「これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真ん中に立たれた。」(36節)数人ではなく、十人以上の弟子たちがいる所で、イエスご自身が「真ん中」に立たれたのである。ヨハネの福音書によると、戸を閉じた部屋に、主イエスが入って来られ、「平安があなたがたにあるように」と告げておられる。弟子たちは「驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。」ほとんどの弟子たちが、目の前に主イエスご自身が現れて下さっても、それだけでは、まだ信じることができなかったのである。それ程に、復活を信じることは難しことであった。(37〜38節)
2、その難しさは、イエスご自身によって取り除いていただく以外に、弟子たちの側に手だてはなかった。「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」(39節)「霊」ではないこと、「からだ」を持って死からよみがえったことを、はっきりと知らせようとして、「手」と「足」を見せておられた。(※「こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。」ヨハネ20:20)弟子たちは皆、主イエスをはっきり見た筈である。ところが「それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、『ここに何か食べ物がありますか』と言われた。」(41節)弟子たちの心、すなわち人の心は、「よみがえり」「死人の復活」については、どこまでも頑なで、なかなか信じないというのが、聖書そのものの証言である。その頑なな弟子たちのために、主は一緒に食事をすることを通して、彼らの心を解きほぐそうとされたのである。「焼いた魚」を、彼らの前で食べておられる。何という心遣いであろうか。(42〜43節)
3、ところで、その日、その夜、弟子たちは激動の一日を過ごしていた。失意の者、戸惑いの中でもがく者、幾らかそこから抜け出していた者、喜びと希望の光が差し始めていた者、それぞれであった。喜びの知らせが、次々もたらされいたものの、それで全員が立ち上がる、という訳にはいかなかった。彼らは尚も、恐れと戸惑いの中にいて、進むべき道は見出せないでいた。そのような時、「イエスご自身が彼らの真ん中に立たれた」のである。解決を見つけられないで、また進むべき道筋が分からないでいた弟子たちの「真ん中」に立って、「まさしくわたしです」と、力強く語られたのである。そして、まだ信じられず、恐れている者たちと一緒に、魚を食べ、「わたしは生きている。わたしはいつも、あなたがたと共にいる」との、確かな慰めのメッセージを発しておられたのである。エマオの村でも、弟子たちと食事をされたこと、今また「ここに何か食べ物がありますか」と尋ねて、焼いた魚を一切れ食べて見せられたこと、それらには、弟子たち一人一人の生活の中に「わたしはいる」との、そんな大切な意味も込められていた。そして、弟子たちの「真ん中」で、魚を口にほおばっておられる主イエスのそのお姿は、何ともまた慰めに満ちていたものに違いなかった。
<結び> 復活の主イエス・キリストが、弟子たちの真ん中に立たれること、それは今日の教会でも、確かに起こっていることである。週の初めの日の礼拝においてもちろんのこと、聖書を中心に私たちが集まる度に、主ご自身が、その真ん中に立って下さるのである。私たちは、この肉の目で見て、また手で触って主イエスを確かめることはできないとしても、聖書に記された約束の言葉を通して、「まさしくわたしです」との、主イエスの言葉を聞くのである。そしてやがての日、復活の主にお会いする日を、心待ちするのである。(※ペテロ第一1:3〜9)
主イエスは今朝も、この会堂の「真ん中」におられ、私たちの礼拝を喜んで下さり、一人一人に対して、慰めと励ましの眼差しを注いで下さっていると、そう確信することができるのは、何と素晴らしいことであろうか。尚も信じられない者がいるなら、一緒に食事もして下さるのである。そう考えると、礼拝後の昼食の一時も、主イエスが共におられる幸いな時であると、改めて心に留めさせられる。復活の主イエス・キリストは、いつでも、どこでも、私たちと共に歩んで下さる、真の救い主、慰め主である。やがて私たちの身体も、栄光の身体に変えられる、確かな復活を心から信じて、この地上の日々をしっかり歩むことが導かれるように!
|
|