礼拝説教要旨(2012.09.23)
イエスだと分かる時 
(ルカ 24:28〜35)

 十字架の死からよみがえられた主イエスは、復活されたその日、失意の内にエマオの村に向かっていた二人の弟子に、ご自身を現しておられた。「イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。」(15節)ところが二人は、イエスとは気づかないまま、顔を曇らせ、失意の思いを打ち明けていた。主イエスは、二人の愚かさ、そして心の鈍さを嘆かれたが、「キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか」と語って、聖書全体を通して、「ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」二人は、道々、主イエスより聖書の説き明かしを聞きながら歩んでいた。それは真に幸いな経験であった。(25〜27節)

1、その幸いな経験は、目的地に近づくにつれ、終わりを迎えつつあった。けれども、二人はもはや別れ難くなっていた。聖書の説き明かしをもっと聞きたい、この方ともう少し一緒に過ごしたい・・・等々、何かしら心を動かされていたからである。「彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。それで、彼らが、『いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから』と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。」(28〜29節)この時、主イエスはどんなそぶりをしておられたのか、とても興味深い。二人が止めなければ、そのまま過ぎて行こうとしておられたのだろうか。それとも二人を試しておられたのだろうか。恐らくクレオパの家でのこと、そしてイエスを迎えるのは、二人には自然な成り行きで、是非にと願ってイエスを引き止めることになった。このようにして、主イエスを自分の家に招き入れたことによって、二人は更に大きな幸い、豊かな祝福に与ることになるのである。

2、イエスを客として迎えた食卓で、何故かイエスご自身が「パンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。」聖書はそのように、その時の状況を記している。(30節)以前から何度か、主イエスはそのように振る舞っておられた。近くでは、最後の晩餐の席で、ずっと前には、五千人の給食の奇跡の時など、主は「パンを取って祝福し、裂いて彼らに渡される」、そんな仕草をなさっていた。(22:19、9:16)「それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。」(31節)二人は、食卓で主人として振る舞われた方を、はっきり「イエスだとわかった」のであった。肉の目も、心の目も一気に開かれる、そんな経験である。彼らは不思議にも、目の前からイエスがおられなくなっても慌てず、悲しむこともなかった。「道々お話になっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」と、心が内側から熱く燃え上がった、不思議な高まりを思い出しながら、復活の主イエスに、確かにお会いした喜びに浸っていた。(32節)恐らく、聖書の説き明かしを聞いていた時、「そうだったのか!」「そういう意味だったのか!」との驚きや発見に、心を熱くされていたのである。

3、そして二人がしたこと、それは、すぐさまエルサレムへと引き返すこと、よみがえった主イエスにお会いしたことを、仲間たちに知らせることであった。道のりの遠さは、何ら問題とならなかった。夜が明けてからとも考えなかった。「すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間たちが集まって、『ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された』と言っていた。彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。」(33〜35節)復活の主にお会いしたことを、一刻も早く仲間たちに伝えたいと願ったからである。「イエスはよみがえられた。私たちはその主にお会いした」と。エルサレムでは、仲間たちが「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていた。エマオから戻った二人の証言を含め、復活の主にお会いした者、復活の証人となる者が、一人また一人と増し加えられていた。彼らは誰一人として、自分から復活の主のもとに行き着くことはなかった。イエスご自身が近づいて、ご自分を現し、確かに生きておられることを見せて下さるのである。主イエスの復活を信じる者に、その人を造り変えて下さる、これが復活の証人が次々と世に送り出される、その道筋である。その信仰に導かれるには、必ず時があり、復活の主イエスだと分かる時が、一人一人に備えられていたのである。(※コリント第一15:3以下)

<結び> 二人の弟子は、イエスのよみがえりを信じ、「イエスだとわかった」のは、「道であったいろいろなこと」や「パンを裂かれたとき」のことと、仲間の弟子たちに懸命に話したようである。食卓での経験は、電撃的とも言えるようであった。瞬時に目が開け、「イエスだとわかった」のである。しかし、そこに至る前の経験、聖書を説き明かされたこと、キリストの苦難と栄光の両面を示され、そのことに心が開かれて行ったその過程は、二人には格別なものであった。そして、そのことを通して導かれた信仰は、最早、目の前に主イエスがおられなくても、揺るがないものになっていた。この信仰は、今日に至るまで、イエスの復活を信じる者には、皆、分け隔てなく与えられている。何故か。イエスの復活を信じる信仰は、その人がそこに到達したものではなく、主イエスがその人に近づき、その人を信じる者に変えて下さる、そのような信仰だからである。復活したイエスが、ご自身を現して、イエスだと分からせて下さるのであって、その人その人に相応しく、イエスだと分かる時を、イエスご自身が備えて下さるのである。(※ヨハネ20:26〜29)

 復活の主イエスを信じる信仰は、今日、尚不思議で、不可解なものかもしれない。けれども、聖書は、造り主なる神がおられ、その神は、ご自分に背いた人類を、尚も愛して救おうとされる方であることを告げている。そして、私たちを愛して下さる神は、救い主キリストを遣わして下さり、そのキリストが十字架で死なれ、三日目によみがえり、私たちを真の救いへと招いて下さっていることを告げるのである。人が人として生きるには、この聖書に触れること、それが何よりも大切なことと知らされる。生ける真の神がおられ、この神がキリストを通して、愛を注ぎ、救いへと招いて下さっているからである。よみがえった主イエス・キリストこそ、私たちの救い主であることを信じ、この方に従う生涯を、変わることなく送らせていただきたいものである。(※この信仰によって、私たちは、目に見えるものによって心を動かされることなく、確かな望みに生きる者とされている。この地上で平安をもって歩めるのは、どんなに幸いなことか!・・・)。