1. 前回10章でイスラエルは、カナン南部の王たちの連合軍を、主によって打ち破り、南部の町々を占領し、大勝利を得ました。他方、今日の11章1節から15節においては、ハツォルなど、カナン北部の王達の連合軍との戦いとなり、これもまた大勝利を、主がもたらされています。この戦いの記述は、大きな戦いであるにもかかわらず、かなり簡潔に、駆け抜けるように記されているのが印象的です。これは、カナンでの戦いの終わりが近づき、急速に展開が速くなっているからであります。しかも、以前カナン北部の首都であったハツォルは、火で焼かれています。これは占領の始まりの町エリコと同様の扱いであり、かつ対照的でもあります。つまり、最初の町エリコと、最後の町ハツォルといった形です。1節〜15節までのカナン北部の連合国との戦いの記録は、戦いの終わりを予感さ
せるものとして印象づけられています。
16節からは、このカナン攻略の総括とも言えるものが語られています。イスラエルが占領した地が「この地のすべて」と言われ、23節では、その地をことごとく取り、相続地として分け与えた。そして「その地に戦争はやんだ」とあります。つまりカナン占領の戦いの終わりを、この11章では記しているといえるのです。
2. 他方、このカナンでの戦いの総括の中、21節、22節でアナク人を聖絶した記事が出てきますが、これは突然出てきたように感じ、ここだけ異質な印象を受けます。これはイスラエルにとって、アナク人とは「恐れ」の象徴とも言えるべき存在だったからです。そもそも、アナク人は、ネフィリム人の末裔、つまり巨人の末裔と言われており、民数記13章において、モーセに引き連れられてきたイスラエルが、カナンの地へ最初に斥候を送りますが、その報告の中に、その名前が出てきており、イスラエルは、その名前を聞いただけで、叫び、泣き明かしてしまったのです。彼らにとってアナク人は、とてもかなわない、決して立ち向かってはならない、「恐れ」の象徴のような存在であったと考えられます。カナン攻略のはじまりに、アナク人への「恐れ」があり、また戦いの終わりに、「恐れ」の象徴であったそのアナク人が聖絶される、という形でこの戦いが閉じられているのです。
しかしこの記事は、ただ恐ろしいアナク人が聖絶された、ということではなく、霊的な事柄として捉える必要があります。今までの戦いの際、いつも主は、「恐れてはならない」とイスラエルに対して語られていました。そういう意味で、イスラエルにとってのカナン攻略は、イスラエルの内にある「恐れ」との戦いでもありました。
ですから、イスラエルにとって、「恐れ」の象徴でもあったアナク人が聖絶されたことは、自らの内にある「恐れ」そのものが聖絶されたことを意味していました。また、アナク人への聖絶は、「恐れ」」に対する勝利を物語っています。しかし、「恐れ」に対して自分で打ち勝つことは困難です。
20節には、「主が彼らを容赦なく聖絶するためであった」とあります。「主が、聖絶するため」、つまり「恐れ」を聖絶して、この戦いを戦い、勝利を与えてくださったのは、他でもない主であったのです。
3. 他方、イスラエルには、主が戦ってくださっている中、その主に信頼して、主の言葉に従い通すことが求められてきました。これはイスラエルにとって、自らの「恐れ」との戦いにおいて、必要不可欠なことでありました。
というのも、カナン北部連合軍との戦いの折、主は6節で、「恐れてはならない」という言葉に続いて、戦車を火で燃やし、馬の足の筋を切ることを命じておられます。当時の戦争において、戦車とそれを引く馬は、強力な戦力でした。イスラエルにも、とても魅力的に映ったことでしょう。当然、戦利品として手に入れたいと思ったと推測されます。しかしそれらを得てはならないと命じられているのです。これは、それらを手に入れる時、イスラエルが、それらに頼ってしまい、主の戦いであることを忘れてしまう危険が高かったからだと考えられます。
あれもこれもあればよい、そうすれば安心だ。大丈夫だ。そのような心の根底には、人や事柄への「恐れ」があります。その「恐れ」のゆえに、不安になるからこそ、私たち人間は、あらゆることを想定し、あらゆる準備をし、目に見えて安心できるものをそばにおきたいと願うのです。これは「恐れ」を自分で何とかしようとしていることに他なりません。しかし、イスラエルがそうであってはならないでしょう。なぜなら、自らの内にある「恐れ」との戦いは、目には見えずとも、文字通り何でも出来るお方、主が戦ってくださっているからです。
比べるべくもなく、イスラエルにとっては、戦車や馬など、人の手によるものではなく、主こそが、この戦いにおいて、最大の力であったのです。だからこそ、『不安にならずに、あなたたちの、戦車や馬などに頼ろうとする気持ちを捨てなさい、主であるわたしが共にいて、戦うのだから何も心配ないのだ、私のみを信頼しなさい、』という意味を込めて、6節の言葉を主は命じられたのです。そして、そういった主の言葉に信頼して、従うこと、そうしていくことこそが、「恐れ」に対する勝利への唯一の歩みであったのです。
4. 他方、22節の最後の言葉 「ただガザ、ガテ、アシュドデにわずかの者が残っていた。」 もまた重要であります。これらの町々は、いまだ占領していない町でありました。一見これでは、アナク人という「恐れ」の象徴を滅ぼしつくしたことにはならないのではないか?と思えますが、「イスラエルの地には、いなくなった」と記されているように、イスラエルの中にはアナク人がいなくなったのですから、霊的な意味において、イスラエルの内にあった「恐れ」自体は、この時完全に一掃されたものとして捉えるのがよいかと思います。むしろ、このようにあえてアナク人が残っていることが記されている意味は、今後イスラエルが進んでいく中で、再度「恐れ」を抱く可能性が存在していると
いうことでしょう。
主が「恐れ」に対して、完全な勝利を与え、取り去ってくださっていても、その後に、「恐れ」が生じる可能性があるということです。これはつまり、今後、イスラエルが、主に信頼しなくなり、主の言葉に従わなくなることがあり得る、ということです。というのも、「恐れ」はそこから生じるからです。主に信頼して、従っていくとき、主が戦ってくださり、勝利を与え、一掃してくださるのですから、「恐れ」はありません。ですが、そうではなくなった時、自分で何とかしようと始めたとき、逆に「恐れ」が芽吹いてくるのです。
これは、人間の罪の根深さを思わせるものであります。主が勝利を与えてくださっていても、そこから逸れる、自らそれを捨てる、そういった人間の姿がここには予兆されているように思えます。
結び. イスラエルと同じように、私たちもまた、主だけに頼っていくことが難しい、主を忘れて、すぐに「恐れ」を心に抱き、不安になってしまう、そのような根を持っています。多くの時、私たちの心の中には、「恐れ」から来る不安が渦巻いてしまうのです。あれもこれもないと、という不安、物や人に頼り、そこに依って立とうとしてしまいます。自分で何とかしようと心でもがいてしまいます。主が共にいてくださることをたやすく忘れてしまうのです。主がいるから安心だと、心のそこから思い続けていくことが難しいのです。
ですが、11章の最後の言葉、23節に「その地に戦争はやんだ」とあるのを忘れてはなりません。
イスラエルの地に、戦争はやんだのです。イスラエルの「恐れ」との戦いが勝利で終わったのは、主が戦ってくださったからです。主だけが、私たちの内なる戦い、「恐れ」との戦いを、勝利に導き、「恐れ」を取り去ってくださる、戦争を終わらせることができる唯一の方なのです。主のみに安心があるのです。これだけは絶対に変わらない事実なのです。変わりやすい私たちだからこそ、変わらないその主という事実にあって、歩むしか道はないのです。
たとえ、私たちが、移ろいやすく、すぐに主を忘れてしまいやすい者たちであろうとも、それでも、なお主に目を向け続けるものでありたいものです。私たちにとって、そこにしか本当の意味で、変わらない安心はないのですから。
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