礼拝説教要旨(2012.09.09)
イエスご自身が近づいて
(ルカ 24:13〜27)

 主イエスは十字架で確かに死なれた。そして真新しい墓に葬られた。しかし、三日目に死からよみがえり、香料を携えた婦人たちが墓に着いた時には、もうその墓は空であった。途方に暮れたその婦人たちは、御使いに促されるようにして、「イエスのことばを思い出した。」十字架につけられた後、三日目によみがえることを、主イエスははっきりと告げておられた。彼女たちは、復活を信じる者となって、使徒たちを始め、他の男の弟子たちに、主のよみがえりを告げたのである。「ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。」けれども、ペテロともう一人の弟子が墓に向かい、彼らも「空の墓」を見届けたのであった。(11〜12節)

1、主イエスのよみがえり、「復活」は事実として起こっていた。けれども、それを信じることは、科学や知識の進んだ今日だから難しい訳でなく、最初の時から、甚だしく難しいことであった。「事実だから!」と言われて信じられるものではなく、その人が信じやすい人だから信じるのでもなく、神ご自身が、一人一人を信じる者に変えて下さる、そんな神の御業があると知ること、それが大事である。ルカ福音者はその事実を、エマオという村に向かった二人の弟子の経験によって、今日の私たちにも明らかにしてくれる。「ふたりの弟子」、その一人は「クレオパ」と名が記されている者と、もう一人が、主イエスが復活されたその日、エルサレムからエマオへと向かっていた。墓に行った婦人たちが報告したことを聞き、彼らも何があったのか、よく分からず、失意のまま道々二人で話し合っていた。夕暮れが近づき、日がやがて西に傾いていく頃、二時間以上かかる道を進んでいた。三日前の衝撃は去らず、悲しみと失意は尚、深いままであった。その二人が「話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。」主イエスご自身が、悲しみの中にある二人に近づき、共に歩まれたのである。(13〜15節)

2、「しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。」(16節)とても幸いな状況でありながら、二人は「イエスだとはわからなかった」のである。それ程に悲しみが深かったのであろう。涙に目が曇っていたとも思われる。しかし本当のところは、彼らの心が曇っていたのである。イエスは尋ねられた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」失意の心を、優しく解きほぐすよう語られたが、二人は益々暗くなって、エルサレムでこんな悲しい出来事があったと、イエスの十字架の死と今日の不思議な知らせのことを告げた。(17〜24節)彼らは、イエスを「行いにもことばにも力ある預言者」と信じていた。そして、「この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ」と望みをかけていた。その方の墓が空になって、私たちは動転している、御使いの告げた「イエスは生きておられる」との言葉にも、だただん驚いていると、そう言うだけが精一杯であった。彼らの絶望は、かくも深く、心は全く閉ざされてしまっていたのである。「イエスは生きておられる」との御使いの言葉を、彼らも知らされていた。空の墓の事実も聞いていた。しかしよみがえりについては、考えの外と、顔を曇らせていたのである。

3、道々、この二人の話を聞いておられたイエスが語られた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」(25〜26節)心の鈍さの原因は、聖書の全体をよく知ること、信じること、それを忘れているところにあったのである。キリスト=メシヤへの期待の多くが、この世の王としてのものであったことに反して、イエスは十字架で死なれるという、受難の僕の姿を明らかにされた。けれども、この受難の僕は、苦しみの後、栄光に入れられることも、聖書は語っているのである。(イザヤ52:13、53:10〜12)十字架の出来事の後に続く、栄光の出来事を期待する、そのような聖書の読み方をするかしないか、それは大きな違いを生むことになる。それで主イエスは二人に、「モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」(27節)二人の弟子たちのために、特別講義をされたという、そんな場面である。二人にとって、真に幸いな時間だったに違いない。私たちも、聖書全体を通して、主イエスの十字架と復活の出来事を理解し、心から信じることの大切さを知らされるのである。

<結び> 二人の弟子が、はっきりと主イエスのよみがえりを信じるには、尚もう少し時間が必要であった。その間、主イエスはずっと、二人の傍にいて、二人に歩調を合わせるように共に歩まれた。二人の心の痛みを思いやり、その悲しみを共に担うようにして歩まれたのである。「ああ、愚かな人たち。・・・心の鈍い人たち」と嘆かれたが、その嘆きに叱責は込めてはおられない。悲しみに心が押し潰されそうになっている二人に必要なのは、聖書全体からの本当の慰めであること、そのことを分からせようと、丁寧に語って下さったのである。主イエスは、先ずご自身が二人に近づき、彼らと共に歩んで下さった。悲しみの中で、二人は絶望していたのである。彼らには答えがなく、光は見出せなかった。その時、主イエスが近づいて、共に歩み、悲しみの元を聞き出して下さるのである。そして聖書全体からの答えを示して下さるのである。決して急がすことはなく、二人の心がほぐされるのを待つようにして。

 「イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた」と記されていること、この光景は、私たち一人一人の人生においても、同じように起こること、また確かに起こったことと心に留めたい。復活を初めて信じるようになる時のこと、確かに信じた時のこと、一人一人が思い返すことができるのではないだろうか。それだけでなく、これまでの歩みの中で、いろいろな経験を思い出すことができる。悩んだこと、苦しんだこと、悲しみに沈んだことも数多いからである。今、失意の中で苦しんでいるかもしれない。それ程でなくても、難しい課題が迫って来ると、私たちは勇気を失うことがある。けれども、主イエスは必ず、どんな時にも私たちに近づいて、私たちと共に歩んで下さることを、しっかりと心に留めようではないか。真の救い主、真の慰め主が共におられることを忘れず、感謝をもって歩みたいのである。(ローマ8:28、31以下)