礼拝説教要旨(2012.09.02)
空の墓と途方にくれる女たち
(ルカ 24:1〜12)

 十字架で死なれた主イエスの亡骸は、アリマタヤのヨセフとニコデモによって、真新しい墓、岩に掘られたヨセフの墓に葬られた。その墓は、石に封印がされ、弟子たちが盗まないよう、番兵が置かれて厳重に守られていた。埋葬の様子を見届けた女の人たちは、安息日の明けるのを心待ちした。用意した香料と香油を、もう一度使って、埋葬の仕上げをしたいと、そう願っていたのである。彼女たちは、「週の初めの日の明け方早く」、準備した香料をもって墓に着いた。けれども、その墓の石は既にわきにころがされ、主イエスのからだは、そこになく、予期しなかった光景に立ちすくむばかりであった。一体何が起こったのか、彼女たちには考えも及ばなかった。(1〜3節)

1、途方にくれていた婦人たちの前に現れたのは、「まばゆいばかりの衣を着たふたりの人」、御使いであった。その御使いの知らせは、「よみがえられたのです」と、イエスは生きておられ、生きておられる方は墓にはおられないと、驚くべきことであった。直ちには誰も受け入れ難いこと、信じられない知らせであった。御使いは、主イエスご自身が、予め告げておられたことを思い出させるように、「人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう」と語った。その言葉に促されるように、「女たちはイエスのみことばを思い出した」と記されている。彼女たちは、どの程度思い出したのであろうか。確かに聞いたことはある、その時、どれだけ分かっていたのか、それも定かでない・・・、それが実感ではなかっただろうか。よみがえりの予告は、三度繰り返されていた。ガリラヤで二回(9:22、9:44)、そしてエルサレムに近づいた時である。(18:31〜33)人の手に渡され殺されること、しかし、三日目によみがえることが、はっきりと告げられていたが、弟子たちは驚いたり、戸惑ったりして、それ以上は確かめてはいなかった。婦人たちも同様であった。(4〜8節)

2、「思い出しなさい」と言われた彼女たちは、懸命に思い巡らしたのに違いなかった。イエスが語られた言葉を思い出した彼女たちは、大急ぎで弟子たちのところに戻って、「一部始終を報告した。」「この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。」(9〜10節)実際のところ、彼女たちがイエスの言葉を思い出し、その言葉を信じるのは、そんなに易しくはなかったと思われる。墓に急いでいた時、墓石を誰が動かすのか、はなはだ心配であった。(マルコ16:3) 地面が揺れ、石が転がされ、御使いが現れて告げた時、震え上がって恐れたのであった。(マルコ16:8) けれども、墓の中にイエスの身体はなく、御使いがイエスを「生きている方」と言い、「ここにはおられません。よみがえられたのです」と告げたこと、そして予め告げられていた言葉を思い出して、主イエスのよみがえりを信じる者へと、徐々に導かれたのである。空の墓を前に途方にくれた彼女たちであったが、弟子たちに一部始終を告げた時には、主イエスのよみがえりを、最早疑うことなく信じて語っていた。他方、男の弟子たちは皆、これをたわごとと思い、ほとんど聞く耳を持たずにいたのである。(11節)

3、使徒パウロは、イエスの十字架と復活こそ福音の中心、最も大切なことと語っている。(コリント第一15:3-4)主イエスは十字架で死なれ、三日目に死からよみがえられ、弟子たち一人一人に現れて下さったと。けれども、死人の復活を信じるかどうかは、間近にいた弟子たちでも、最初は途方もなく難しいことであった。婦人たちが、イエスの約束の言葉を思い出して信じたことを、丁寧に報告したにも拘わらず、また益々熱心に語ったものの、「たわごと」と思い、彼らは「信用しなかった」。そんな話は「馬鹿げている」、聞くに堪えない話・・・と取り合わなかったのである。婦人たちは、次々と入れ替わり、主はよみがえられた!と語っていた。でも男の弟子たちは取り合わないでいた。けれども、さすがにペテロは、自分で確かめないではいられなかった。復活の知らせをペテロに告げるようにと言われていて、彼自身、押し出されていたのかもしれない。(マルコ16:7)急いで墓に行き、その中をのぞき込んで、亜麻布だけが残された空の墓を確かめた。主イエスの身体はそこになく、亜麻布の他、頭に巻かれていた布が、離れた所に残されているのを見た。けれども、それでイエスの復活を信じたかと言うと、まだ半信半疑で、「この出来事に驚いて家に帰った」のであった。(12節)

<結び> 主イエスの死からのよみがえり、復活を信じることは、それ程に難しいことと、今更ながらに気づかされる。十字架の死の事実は、かくも強烈で、イエスに望みを託した人々にとって、そのイエスがよみがえるとは、とても思えなかったのに違いない。ほんの少し前、ラザロのよみがえりの出来事を見た弟子たちであっても、主イエスの十字架の死が焼き付き、この方が復活されると、そう期待する気力も失われていたのである。けれども、その同じ時、婦人たちは主イエスの約束の言葉を思い出すよう促され、空の墓を見て、約束の言葉を思い出して信じたのであった。やがて、初めは信じなかった弟子たちも、復活の主イエスにお会いして、「主はよみがえられた!」と、心から信じる者に変えられて行った。その信仰は、非常識なことを無理矢理信じるようなものではなかった。極めて常識的で、「自分の見たこと、聞いたことを話さないわけにいきません」と、そのような信仰だったのである。
(使徒4:20)

 私たちもまた、そのような復活信仰に導かれているのである。私たちも、主イエスの空の墓に立ち尽くすに違いない。途方にくれることであろう。けれども、主イエスの約束の言葉を心に宿しているなら、婦人たちと同じように、主のよみがえりを信じる者となるのである。(ヨハネ11:25)また、初めは男の弟子たちと同じように、復活なんて有り得ない、馬鹿馬鹿しい、とんでもない話と、取り合わないでいても、主イエスが私たち一人一人の前に現れ、近づき、声を掛け、手を差し伸べて下さるのに気づく時、私たちもまた、復活を信じる者に変えられるのである。事実、信じる者になって、復活の証人となって歩むよう導かれている。この不思議を認め、感謝して歩もうではないか。そして尚も復活の証人が増し加えられるようにと、祈り続けたいのである。