ガラテヤの教会は、「かき乱す者たち」(1:7等)の陰謀に落ち、パウロが教えた福音の真理(2:4,14)から離れ、ユダヤ教律法主義の奴隷になりかけている信徒たちからなる教会でした。この教会が立ち直ることを強く願うパウロの懸命な説得が続きます。
今日の箇所で、パウロはイシュマエルとイサクの誕生の史実にひそむ意味に光を当てながら、この教会に奴隷の子か、自由人の子か、と選択を迫ります。パウ私たちに語りかける福音の真理を聴き取ってまいりたいと思います。
1、まず、パウロが、奴隷、自由と言うときに前提としている、人はいかにして神様に義とされ、救われるのか、について再度覚えたいと思います。
パウロが、4章の終りまででガラテヤの教会に語りたかったことは、2つです。(1) あなたがたは、福音の真理からずれてしまっていること、(2) 私が伝えた福音の真理を正しく受け入れて、立ち直ってほしいことです。
パウロは、ガラテヤの教会のために、この手紙でもう一度、福音について、律法について語ります。すなわち、人が、神様に義とされ (正しい者、神様との正しい関係にある者とされる)、救われる道は、ただひとつ、義なる神様のひとり子であるイエス様を信じ、イエス様とひとつに結びつき、イエス様を着て、神様の前に立つことであり、律法は、このイエス様へと私たちを導く「養育係」(3:24)に過ぎない、律法にも、律法を行うことにも救いの役割はないのだ、とです。これこそが、福音の真理であり、律法の本当の姿なのだと、です。
そしてパウロは、ガラテヤの教会の信徒たちが、陥っている律法による義では、終りの日(神の前に一人ひとりが立ち、さばきを受ける日)に神様に義とされ、救われることは決してないことを「案じて」(4:11)、いや恐れて厳しく立ち帰りを迫っているのです。
ひるがえって、私たちの義と救いは、この福音の真理に基づき、これからズレていることはないでしょうか。ズレを覚えるときには、立ち帰ろうとしているでしょうか。常にみことばによって確かめられ、御霊の働きに拠り頼んで真理へと導かれ、教会の交わりの中で、正されてまいりたいと思います。
2、次に、奴隷と自由について正しく覚えたいのです
今日の聖書箇所でパウロが「奴隷」と言っているのは、律法によって罪の奴隷となっていることであり、「自由」と言っているのは、律法による罪の奴隷から自由となっていることを指しています。
アダムの原罪(「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった」創世記3:22)を負って、アダムの末として生まれて来た人間は、神様からの戒め(たとえば、「十戒」のような)を神様が望んでおられるように行い・守ることは出来ません。律法は、人の行いについて、神様のみこころからズレていること(=罪)を断定するとともに、心のうちに覆い隠している罪をあばき、罪に定めます。ですから、律法を行うことによって義とされると信じている者(たとえば、ユダヤ教の伝統的教えを守っている者)は、実は、律法によって常に罪を明らかにされ、神様の前で罪ある者として訴えられている者なのです。これが律法によって罪の奴隷になっていることであり、当然、神様に義とされず、救われていない状態です。
先ほど詳しく読みましたように、今日の聖書箇所でパウロは、律法によって罪の奴隷になっている者を女奴隷のハガルに、シナイ契約に、今(当時)のエルサレムに、肉によって子を産む女にたとえています。
一方、罪の奴隷から自由となっていることは、律法に罪があばかれ、罪人と断定され、神様の前で罪ある者として訴えられていることから解放され、自由にされた状態にあることです。パウロは、この状態を自由人の女サラに、上にあるエルサレムに、霊によって子を産む女にたとえています。
しかし、人はこの律法による罪の奴隷から自由になることを自分の力で獲得することは出来ませんでした。神様は、預言者を通して救い主(メシヤ)を予告し、示されますが、時いたって、ひとり子イエス様を遣わされて、罪人の死を死んでくださり(=十字架)、律法による罪の奴隷から解き放ってくださるとともに、律法を成し遂げて下さったのです(ロマ8:4参照)。これが、自由です。神様に義とされ、救われている状態です。
パウロは、ハガル・イシュマエルとサラ・イサクのはっきりしたちがいを用いて、律法と福音とのちがいを明らかにして、罪からの自由を与えている福音に立ち帰るようにと迫っているのです。
私たちは、律法の前に立ち、心をご覧になる神様の前に立つとき、罪深い自分に、罪の奴隷である自分に泣いていたところからイエス様を信じて、罪から自由にされた一人ひとりではなかったでしょうか。
この自由とされたイエス様の出来事を改めて感謝しつつ覚えたいと思います。
3、そして、イエス様の福音を信じる私たちが「約束の子」であることに励ましを受けてまいりたいことです。
私たちは、神様のお働きの中でイエス様を信じ、イエス様の十字架と復活を通して新しく生まれた者です。御霊によって生まれた者(29節)であり、イエス様とともに罪人の私は死に、イエス様とともに復活する確かな希望を与えられて、永遠のいのちにおいて、今を生きている者です。
イサクが、すでに死んだようなアブラハムとサラから(ローマ4:19)、霊的なお取扱いの中で、神の約束に従って誕生したように、私たちも霊的なお取扱いの中で生まれたという点で「約束の子」であり、神様の永遠の選びにおいて生れた者であることを改めて覚えたいのです。
「約束の子」であることに改めて励ましをいただいて、神様を讃えつつ、御国への旅路を歩む日々でありたいと願う者です。
最後に、Uテサロニケ2:13−15を読みます。
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