礼拝説教要旨(2012.08.19)
かえって祝福を与えなさい
(ペテロ第一 3:8〜12)

 この8月、先ず「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」(マタイ5:9)との主イエスの言葉を覚え、私たちが信じているのは「愛と平和の神」(Tコリント13:11)であると心に刻んだ。そして、「平和」を脅かすのは、私たち人間の内にある抑えがたい「欲望」である、との警告に耳を傾けた。神の前で、心を低くし、へりくだることがないなら、私たち人間は決して争うことを止めない、そんな不遜な存在なのである。何としても争いを止めるよう、また決して争わないよう、主イエスの教えに聞き従いたい。ところが、それでもなお、私たちの心は頑なであることに気づかされる。私自身の心の中で、なおもやもやするのは、次のようなことである。

1、8月15日をどんな思いで迎え、その日に何を思い、私は何をするのか。日本でこの日を迎えるのと、隣の国、韓国で迎えるのが、余りに違っていることに、いつの頃からか、激しく戸惑っている。日本の教育は、歴史問題をほとんど棚上げし、自国からの視点のみで考えるのが、極端に思えるからである。どこの国にも同じような課題があるにせよ、正しい歴史認識は必ず必要である。日本長老教会が、韓国の長老教会と協力関係を結び、福音宣教のため、共に歩めるのは、真に幸いなこと、けれども、歴史認識に触れないまま、手を携え合うのは、余り健全ではないようにも思われる。私たちは、自分の考えを整理し、自分の答えを出すことが求められているのかもしれない。余りにもデリケートなので、急ぐ必要はないのも事実であろう。大切な福音において一致すること、宣教のために協力すること、それが第一である。しかし、教会の外が益々騒がしくなっている事実に、私たちは無関心ではいられない状況になってきた。(※日本は今、領土問題で、次々と難題に迫られている。)

2、けれども、どんな難題が次々と押し寄せたとしても、私たちが心に留めるべきは、聖書からの教えである。パウロの手紙も、その他の手紙も皆、主イエスを見上げ、主イエスに倣うことを教えている。十字架で命を捨ててまで、ご自身の民を愛された主を、何としても倣うようにと勧めている。ペテロも同じ思いで語る。「最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」(8〜9節)この手紙を受け取った人々には、実際に迫害が迫り、互いに解決し難い困難があった。不当な苦しみもあったと思われるが、キリストの苦しみを思いつつ、現実に立ち向かうように励まされていた。大事なことは、やはり心を一つにすることであり、互いに愛し合うこと、へりくだることであった。そして、大変な思いをするその時、「悪をもって悪に報いず・・・かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです」と。辛い時、憤りそうな時、そのような時こそ、「かえって祝福を与えなさい」と命じている。感情に走らず、冷静になるように、何よりも、神からに祝福に目を留めるようにと。

3、更に、詩篇を引用して語る。「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行い、平和を求めてこれを追い求めよ。主の目は義人に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行う者に立ち向かう。」(詩篇34:12ー16)神を恐れ、神に生かされている日々を喜ぶ者は、悪い言葉を慎み、真実を語ることに心を傾けること、悪ではなく善を行い、平和を追い求める者であること、主の目は、そのような人の上に注がれ、その人の祈りを聞かれると、見事に告げられている。主ご自身が、悪を行う者に立ち向かって下さることも。いずれにせよ、神の前に、へりくだることによって、「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず」、「かえって祝福を与える」道を、神が開いて下さる、というのである。それこそ、私たちが心して求めることであり、目指す道筋である。(ローマ12:16以下、Tテサロニケ5:15)人の心の内からわき上がる怒りや憤りをを、私たちは決して自分で制することはできない。神が、私たちの心を制して下さらなければ、私たちは、いつまでも憤りを収めることはしない。それ程に人の心は頑なものである。

<結び> 今、日本の世論は激しく揺さぶられていると、そのように感じる。敗戦後67年を迎え、憲法を改正し、自衛隊を「自衛軍」と認めよう、いや「国防軍」としようとまで、話は進んでいる。この67年間、決して戦争をしなかった事実を、私たちは喜び、心から感謝すべきである。ところが、いかにも戦いを求めるかのような論調が目に留まる。「話し合い」を説き、「外交努力」を掲げる人があり、そこに希望を見出すことができるが、好戦的な言論が目立つように思う。かつての戦争の時、なぜ「No!」と言えなかったのか、気が付いたらもう戦争に巻き込まれていた、との言葉を、数多く知らされてきた。同じ過ちを犯してはならないと、つくづく思う。何があっても、巻き込まれないために、しっかりと、聖書の教えを心に蓄えて歩みたいのである。

 「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」日毎の些細な人との関係において、先ずこの教えに従って歩みたい。どんな事柄であっても、悪をもって悪に報いない、そんな日毎の訓練も必要ではないか。何かがあると、すぐにイラ!としてしまう私たちである。心穏やかでいられないことが起こる時、主イエスの十字架を仰ぎ見ようではないか。「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」(2:23)私には無理!と、そう言いそうである。けれども、十字架の上で、私たちの罪をその身に負って下さったので、私たちは、「罪を離れ、義のために生きる」者とされたのである。感謝をもって、主イエス・キリストに従うこと、そのことを導かれたいのである。(2:24)