礼拝説教要旨(2012.08.12)
神の前でへりくだる人
(ヤコブ 4:1〜10)

 8月を迎え、「平和」を巡って思い浮かぶ主イエスの教えの一つは、「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」(マタイ5:9)であること、そして「愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます」(コリント第一13:11)との約束の言葉、私たちが信じる神は、「愛と平和の神」であられることを、先週、私たちは心に刻んだ。主イエス・キリストを信じることによって、神との平和をいただいた者は、「平和をつくる者」とされている。神の子とされた私たちは、その「愛と平和の神」と共に歩む幸いをいただいている。互いに愛し合うように、そして、神が与えて下さる平和を損なうことのない歩みが導かれるように、一層、祈りを厚くしたいものである。

1、祈りが単なる願望に終わってしまわないため、すなわち、一人一人の祈りや日々の歩みが確かな実を結ぶために、私たちは何を覚え、何に心を傾けたらよいのか。ヤコブの手紙はそのことを覚え、警告を発している。「義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます」(3:18)と語ったのに続けて、「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか」と、きっぱり語る。(1節)あらゆる戦いや争いの元は、人の身体の内にある欲望であること、「内なる欲」そのものであると言い切る。欲しがって欲しがって、それでも自分のものにならない時、人殺しをして手に入れようとし、また、うらやんでも手に入らない時、争いを起こすのが世の常である。「あなたがたのものにならないのは、あなたがたは願わないからです」と、その願い方、求め方にも注意を喚起して、「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです」と、これまたきっぱり、その動機の不純さを指摘する。反論できる人がいるだろうか。あらゆる争いの原因は、人の内にある抑えがたい欲望であり、自分中心にその欲望を満たそうとすることにあると、誰もが認めるのではないだろうか。(2〜3節)

2、「あなたがたのからだの中で戦う欲望」については、人が自分の力では制止仕切れないものであることを、はっきり認める必要がある。聖書が繰り返し教える「罪」そのものであり、罪によって支配されている「欲」を指していると、そのように理解できる。それ故に、「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵対することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです」と語って、神に向く以外に解決の道はないことを明言する。「欲」を満たそうとすることは、「世を愛する」ことに他ならず、それは「世の友となりたい」と願って、「自分を神の敵としている」ことになる。そのどうにもならない状態から解き放たれるのは、神の側からのアプローチによるのであり、神が私たち一人一人を愛し、手を差し伸べて下さることによる。その尊い救いを、決して忘れてはならない。そして、神は、ご自身の民のために、「さらに豊かな恵みを与えてくださいます」というのが、その御心である。多くの恵みを注ぎ、一人一人を世にあって実を結ぶ者として生かして下さるのである。決して忘れてはならない教え、それは、神の前に心を低くすること、へりくだること、それに尽きる。「『神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。』」(4〜6節)

3、神がご自身の民に求めておられること、キリストにあって生きる者たちに求めておられることは、神の前にへりくだることである。神の前に出ても、自分の身の程を知らず高ぶる者は、人の前でもおごり高ぶる者である。神を恐れないことによって、人に対しても、決して心を低くすることない人となる。先ずすべきこと、それは神の前でへりくだる人となることである。神に従うことがなければ、悪魔に立ち向かうことはできず、神に近づくことのないまま、自らの心を清くすることなど、全く不可能である。神によって清くされ、整えられることこそ、私たちに必要なことである。神なしに自分を変えることはできず、自分の欲望を制することは、決してできない。私たちは、本当の意味で自分に失望し、絶望しなければならない。そして、ただ神によってのみ、高く引き上げていただくことに望みを置くこと、そのために主の御前でへりくだることが、何よりも肝心となる。(7〜10節)神は私たちの心の内を知っておられる。私たちの心をご覧になり、神の教えに叶っているか、そうでないのか、はっきりと見分けておられる。その神の前でへりくだること、それを忘れて高ぶるのは、全くの的はずれである。生ける真の神を恐れ、その神の前でへりくだる人になることを、心の底から祈り求めたいものである。

<結び> 神の前でへりくだることを、私たち、神を信じている者、神を恐れ、神に従って生きようとしている者こそが、先ず第一とすべきことと気づかされる。私たちは、この世で争いが尽きないこと、それは神を知らない人たちに責任があると、勝手に思い込んでいることはないか。神を知らず、神をも恐れず、自分の欲望に支配されるのは、世の人々の問題である・・・と。しかし、この手紙が届けられ、その教えを先ず聞くべき「あなたがた」は、神を信じている人々、キリストを信じ、キリストに従って生きている人々であった。神の民こそ、先ず自分の心の欲望を、神によって制していただくこと、そして、神の前でへりくだる人となることを、何にも増して追い求めるようにと勧めているのである。

 確かにこの世にある争いが、人と人から始まり、民と民、国と国に広がって行く時、それは正しく、欲と欲のぶつかり合いである。紛争、戦争のほとんどが、利権の争い、覇権の争いである。神を知らないから争いになるではなく、神を知っていても、その争いの当事者となるのである。けれども、私たちが心したいのは、争いを止める者となることである。神が私たちに期待しておられるのは、争いを止めること、戦うことを二度と習わない者となることではないか。私たちは、そのような使命を与えられているのではないだろうか。その使命を果たすために、「主の御前でへりくだりなさい」と命じられているのではないか。その使命を果たした上で、神によって高くされることに、確かな望みを置くよう勧められている。その教えを心に刻み、神の前で、心からへりくだる人とならせていただきたいものである。(箴言3:5〜7、29〜35)