8月を迎える度、とても重い気持ちになることを、既に何度か話した。厳しい暑さの中で、6日、9日、そして15日を迎えるのは、私にとって、どのような思いで過ごし、何を考え、何をするのか、途方もなく課題が大きいからである。これは私一人の問題ではなく、この日本に住んでいる限り、誰にも当てはまることである。日本にある全ての教会にとっても、大切な課題であろう。私たちの日本長老教会は、そのような理解のもとに、先月「社会委員会ニュース」を発行し、問題提起をしている。ところが、この数年、その問題提起が上滑りをしているのか、世の中が大きく変化しているのか、「平和」を願う人々の心が、激しく揺らいでいるように感じる。67年前の「敗戦」を「終戦」と言い換えたからなのか、今また、新たな「戦前」を公然と煽るような言論が目に留まる。心して自分の考えや思いを整理する必要を、私たちは迫られている。今月はその課題に触れ、御言葉に耳を傾けてみたい。
1、「平和」を巡って、真っ先に思い浮かぶ主イエスの教えは、「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」(マタイ5:9)である。私たち、神の子とされた者、キリストにあって生きる者、生かされている者は、平和を願って生きるのではなく、「平和をつくる者」であると宣告されている。社会委員会ニュースで、村瀬俊夫師は、「世の人々の先頭に立ち『今こそ憲法を活かそう 平和を実現するために!』と叫ぶ使命が与えられている」と、その巻頭の思いを締め括っておられる。「その使命を果たそうではないか」とも。主イエス・キリストは、平和の実現のために「祈りなさい」と、そう命じてはおられない。キリストにある者は、神との平和をいただいた者として、存在そのものが、「平和をつくる者」に他ならないと、そのように言われたのである。その教えを受け継ぐように、ヤコブの手紙は次のように語る。「義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。」(ヤコブ3:18)神に従って生きる者は、やはり「平和をつくる人」である。その人の生き様そのものが、そこここに平和を生み出してさえいると、そのように指摘している。語る言葉はもちろん、立ち居振る舞い、生きる全てが、キリストに似る者として整えられること、それがどれだけ大事であるかを心に留めたい。主イエス・キリストに愛されていること、支えられ、守られていることを覚えるなら、自ずと生き方が整えられるに違いないからである。
2、けれども、「平和をつくる人」としての生き方は、自動的に実現するわけではない。それもまた事実である。イエス・キリストの復活を信じて歩み始めた初代教会の人々は、様々の課題に直面し、その度に、その課題を乗り越えて前進していた。教会の中に不平や不満が溜まること、それは避けられなかった。多くの人が群れに加えられ、それは喜びであっても、新しい課題が生じて、それを解決する必要に迫られていた。使徒の働き、パウロの手紙など、新約聖書のほとんどは、そのような教会の課題に触れている。時に激しく対立し、それぞれの道を行くことになったり、キリストにある「一致」は、それほどに難しいことなのか・・・、と驚くほどである。コリントの教会では、パウロの教えを受けながら、その教えから逸れ、そのために教会内の対立が増し、パウロ自身、心を痛めて手紙を書いていたのである。互いの思いやりも薄れてしまい、強い者と弱い者が選別され、分裂と分派が教会を襲っていた。その教会に対して、愛を説き、イエス・キリストの十字架と復活にのみ拠り頼むことを、パウロは懸命に説き勧めていた。そして、もう一通の手紙も出すことになった。その手紙は、この地上にあって未完成で欠けの多い教会でも、その教会がキリストの教会である限り、キリストがこれを愛しておられ、キリストの愛が教会には満ちていると信じて、感謝を込めて書かれていた。
3、その感謝と確信をもって、手紙は祝福の祈りで締め括られる。けれども、その前に、「終わりに、兄弟たち。喜びなさい。完全な者になりなさい。慰めを受けなさい。一つ心になりなさい。平和を保ちなさい」と、たたみ掛けるように命じている。その心にあった思いは、「そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます」と言うように、生ける真の神は「愛と平和の神」であること、その神がともにおられることを、決して忘れないように、そのことを伝えたかったのである。パウロの手紙には、最後に神に祈る時、「平和の神」を呼ぶ特長がある。(ローマ15:33、16:20、テサロニケ第一5:23)この世にある教会の現実は、多岐多様、悲喜こもごも入り乱れて、人の知恵や力が及ばないとしても、「平和の神」が全てを治め、全てを益として下さることを信じて、その神を呼ぶのである。最善を成して下さる神は、「平和の神」であり、必ず「平安」を与えて下さると、心から信じていた。その上、コリントの人々を思う時、その神は「愛の神」であること、そのような神がともにおられることを忘れず、互いに一つ心になるよう、そして平和を保つようにと、勧めている。平和の神と共に歩むのは、いつの時代、どこの国にあっても、神の民にとって、最高の幸せである。互いの交わりが豊かにされ、神が共におられる幸いの内を、確かに歩ませていただけるからである。教会の中はもちろん、教会の外にあっても、神の民は、そのように歩むことが求められている。(11〜13節)
<結び> 「愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます」と約束されたことを、私たちは忘れることなく、この地上の日々を歩ませていただきたい。また、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように」との祈りを、日々心に留めて歩みたい。神が共におられることを忘れないように。その神は「愛と平和の神」であられる。神を信じている、神に従っていると言いながら、互いに愛し合うことを軽んじないように、また平和を損なうことのないように心したい。
「社会委員会ニュース」の指摘にあるように、最近の日本社会の現状は、かつての戦争のことが、今にも風化しそうになっている。国を守らないでどうする・・・と、声高に叫ばれるのに対して、それでも、「愛と平和の神」を信じている者として、何を考え、何をするのか、日々の生活の中で祈り、固く立ちたい。そして、互いに「一つ心になる」こと、「平和を保つ」ことを心掛け、「愛と平和の神」に導かれて歩みたいのである。主イエス・キリストは、「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます」と、はっきり語られた。イザヤ書では、「彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない」と語られている。同じ教えがヨエル書(3:10)にあり、ミカ書(4:3)でも語られる。「愛と平和の神」の御心は、戦いを止めることにあり、そのためにこそ、「一つ心になりなさい。平和を保ちなさい」と、そう勧められているのではないだろうか。 |
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