主イエスの十字架の死、それは敗北の死ではなかった。「父よ。わが霊を御手にゆだねます」と、最善を成して下さる父なる神に信頼し、全てを任せて息を引き取られたその死は、静かな勝利に包まれていたのである。それに気づいたのが犯罪人の一人であり、百人隊長であった。彼らはイエスを仰ぎ見て、この方を信じ、この方に自分をお任せしようと、自分の信仰を言い表していた。他にも、心を動かされていた人がいた。すぐに行動に表すことはなかったものの、「胸をたたいて悲しみながら帰った」人々がいた。そんな時、「ヨセフという、議員のひとり」が、「イエスのからだの下げ渡し」をピラトに願い出た。それはヨセフには、一大決心のいることであった。(50〜52節)
1、彼は、ユダヤ人の指導者であり、最高議会の議員の一人であった。神の国を待ち望み、神の前にも、人々の前にも「正しい人」として歩んでいた。そのヨセフは、イエスに対する他の議員たちの計画や行動には、到底同意できず、ずっと悶々としていた。彼は既に、「イエスの弟子になっていた」が、その信仰をはっきりと言い表すことなく過ぎていた。自分の立場が危うくなるのを恐れ、弟子であることを隠していたのである。(マタイ27:57、ヨハネ19:38)けれども、最早そのような曖昧さに終止符を打つ時が来た。主イエスの亡骸を、そのまま放置することはできなかった。処刑された犯罪人として、また木にかけられた呪われたものとして晒すことなど、とてもできないことであった。そこで、「思い切って」ピラトに願い出たのである。正しく「勇気を出して」進み出たのであった。(マルコ15:43)ピラトはその願い出を受けた時、百人隊長を呼び、イエスの死を確かめさせ、その後、イエスの亡骸をヨセフに引き渡した。ピラトは、イエスの無罪を認めていたからであろうか、またユダヤ人の習慣を理解したからか、ヨセフの願いを受け入れたので、イエスの亡骸は亜麻布で包まれ、「まだだれも葬ったことのない、岩に掘られた墓」に納められた。(53節)
2、ヨセフは、「りっぱな、正しい人」と言われている。マルコ福音書で「有力な議員」、マタイ福音書では「金持ち」と言われ、岩を掘って造った墓は、「自分の新しい墓」であった。彼は自分のために「新しい墓」を用意していたのであって、その墓にイエスを埋葬することになった。その当時も、自分のために墓を造るのは、それなりの財力があり、地位もある人のすることであったに違いない。主イエスは、確かに罪人の一人として十字架で死なれたが、葬られたのは富む者の墓であり、その時、両極の出来事が起こっていたことになる。罪人のために死なれた方が、やがてその死から引き上げられ、栄光のよみがえりに導かれることが、ここで暗示されていた。それはイザヤ書で預言する通りである。(53:7〜9、10〜12、52:13)それとともに、「まだだれも葬ったことのない」墓は、先の「まだだれも乗ったことのない」ろばの子と同様、主イエスが、特別な方、聖なる方、罪のない方として歩まれたこと、そして死なれたことを、はっきりと告げている。主イエスは、罪人を救うために、罪のない方としてその生涯を生き抜き、罪を犯すことなく十字架で死なれ、罪人の身代わりとなって、救いの道を開かれたのである。
3、このようにして、金曜日の夕方、日没とともに安息日が始まろうとしていた時、イエスの葬りは慌ただしくなされた。思い切って進み出たヨセフに加えて、もう一人、ニコデモがその葬りのために進み出ていた。彼は、「没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。」(ヨハネ19:39)二人はユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料といっしょに亜麻布でイエスの身体を巻いた。婦人たちはその埋葬に係わらないで、二人に任せていたようである。そしてヨセフについて行き、墓と、そこに納められる様子を見届けていた。自分たちは、安息日が明けてから、改めて丁寧な埋葬をしようと、香料と香油を用意し、その時を待とうとしたのである。(54〜56節)その日は何の手出しもせず、でも二人の男たちがするのを、何やらもどかしく見ていた、そんな様子が目に浮かぶ・・・。ヨセフとニコデモは、そんな周囲の目は何ら気にせず、いや全く気になることなく、主イエスへの愛と信仰を、この時こそと込めていた。ヨセフが自分の墓に主を埋葬したこと、そこには自分の心を主イエスに明け渡す、そんな信仰も表されていた思われる。自分のものを主のために使う、自分のためには使わない、と決めたから・・・。
<結び> 「まだだれも葬ったことのない、岩で掘られた墓」(53節)、「まだだれも葬られたことのない新しい墓」(ヨハネ19:41)、「岩を掘って造った自分の新しい墓」(マタイ27:60)と、イエスが葬られた墓が、「新しい墓」であったこと、それはヨセフの墓であったことが告げられている。人は誰でも、皆、必ず肉体の死を迎える。その死のために墓を備えるのは、世の常のようである。けれども、誰もが墓を用意できるわけでなく、案外と富の有る無しが関係するのも否定できない。ヨセフは、自分のために用意した墓を、主イエスのために差し出したことによって、自分の生き方そのものが、随分すっきりしたに違いない。イエスの弟子であることを公言したわけであり、最早、ユダヤ人たちを恐れようがなくなった。そして、彼がそのように歩み始めると、ニコデモも同じように歩み始めた。心強かったことであろう。
私たちもそれぞれ、人生において決断すべき時があり、時に思い切って、勇気を出して踏み出す時が、必ずやって来るものである。その時、主イエスを信じ、信頼して踏み出ことができるなら、それは真に幸いな経験となる。物質的なものに、特にこの世の富、また地位に囚われやすいのが私たち人間である。「墓」さえも、私たちの生き方に大きな影響を及ぼしていること、これも事実である。ヨセフは、自分のための「新しい墓」を、主イエスの葬りのために使った。そのことを心に刻みたい。この世を去る時、私たちは何一つ持って行くことはできない。私たちのために十字架で死に、三日目によみがえられた方、その救い主イエス・キリストを信じる者としての歩みが、確かに導かれるように心から祈りたい。
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