いよいよ主イエスが、十字架で息を引き取られる時が来た。午前9時頃から三時間が経過し、昼の12時を過ぎて全地が暗くなり、更に三時間が経過した。「太陽が光を失っていた」その暗がりは、何とも不気味で、その意味するところが何であるか、人々の心を揺さぶっていたに違いない。(44〜45節)太陽が光を失う原因は何か、いろいろと考えられている。「日食があった」とか、その季節に「日食はない」とも言わる。一天にわかに黒雲が覆う・・・、そのような現象は、今日も時たま起こる。何らかの形で人々の心を捉える、激しい気象の変化があったと考えられる。今そこで起こっていることの大きさ、重要さに気づくように、そんな神からのメッセージが込められていたのであろう。
1、そしてルカ福音書は、次のように記している。「イエスは大声で叫んで、言われた。『父よ。わが霊を御手にゆだねます。』こう言って、息を引き取られた。」(46節)大声の叫びは、三つの福音書が記すことで、ヨハネ福音書が告げる、「完了した」との言葉を含むと考えられる。苦悩する真っ只中で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ=わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と、激しい叫び声も上げておられた。けれども、最後は大声の叫びであったものの、「わが霊を御手にゆだねます」と、父なる神への全き信頼の言葉であった。「息を引き取られた」とは、ヨハネ福音書で、「霊をお渡しになった」と言われているように、「霊を明け渡す」こと、知らずして命が終わるのではなく、全てを父にお任せする、そんな自覚的な死を遂げておられたことを告げている。主イエスは、罪人の身代わりの死のためにこそ、人となって世に来られていた。そして、罪のないまま身代わりの死を遂げ、今こそ救いの道を開き、父なる神にご自身を任せようとされた。十字架の死は決して敗北ではなく、勝利の死であった。ルカ福音書はその勝利を静かに描き、十字架のイエスを仰ぎ見るよう招くのである。
2、実際にその場にたたずむ人々の心にも、確かな変化の兆しが見られた。その一人が、百人隊長である。彼はずっとイエスの傍にいた。ゲッセマネの逮捕時からなら、彼もまた不眠不休で、イエスの言動を見届けたことになる。十字架刑の執行を指揮していたなら、きっと大きな葛藤を抱いての任務遂行だったのであろう。「父よ。わが霊を御手にゆだねます」との言葉を残して息を引き取られたイエスを見て、遂に、「神をほめたたえ、『ほんとうに、この人は正しい方であった』と言った。」(47節)彼もまた先の犯罪人の一人と同じように、イエスの無罪性をはっきりと認め、それを言葉にした。彼は「イエスの正面に立っていた。」(マルコ15:39)暗闇が襲い、地面が揺れ動く等、心を揺さぶられる時、真っ直ぐに主イエスを見上げていたのである。そして遂に、「この方には罪がない。この方は神の子、正しい方」と、信じて告白するまで、心を動かされたのである。この時、群衆もまた、「胸をたたいて悲しみながら帰った」と記されるように、一連の出来事に心を打たれないではいられなかった。(48節)この人々が、やがてペンテコステの日、ペテロの説教を聞いて悔い改めと信仰に導かれたと思われる。(使徒2:37)
3、そして他方、「イエスの知人たちと、ガリラヤからイエスについて来ていた女たち」については、「遠く離れて立ち、これらのことを見ていた」と、何やら遠巻きにイエスの死を見つめていた、そんな様子が記されている。(49節)弟子たちは何人いたのか、誰がいたのか、明らかではない。主要な弟子たちほど遠巻きだったのか、近くにいないで隠れていたのか、そんな印象である。イエスご自身は、全く孤独で、一人苦しみを耐えて身代わりの死を遂げられたことを、私たちは、改めて心に留めるよう迫られる。その場では、一歩も進み出ることができない人であっても、後になって、何時でも、気づいたなら、その時、躊躇わずに進み出るよう、そして、十字架の主イエスを救い主キリストと信じるようにと、全ての人が招かれているのである。実際、息を引き取られる時、大声で叫ばれたが、心の中の一番の思いは、「父よ。わが霊を御手にゆだねます」と、神への信頼に満ちておられた主イエスである。そのイエスを目の当たりにして、はっきり信じたのが犯罪人の一人であり、百人隊長であった。私たちも、生きるも死ぬも、主イエスの傍近くに何時もいる、そんな幸いな者とならせていただきたいのである。
<結び> 「父よ。わが霊を御手にゆだねます」との祈りは、詩篇31篇5節が元になっている。主イエスは、神に「父よ」と親しく呼び掛け、その命を、父なる神にお任せになった。ご自分の全てを神に明け渡すようにして、地上の生涯を終えられた。その死は安らかで、一点の曇りもないものであった。主イエスに倣う者は、この信頼のお姿こそ倣うべきと教えられる。同じように、神を父と呼び、神に信頼して生きることが導かれからである。そして、この祈りは、日々の生活において、一日の終わりの祈りとなり、世を去る時にも祈る祈りとなる。(ステパノの祈り:使徒7:59)いずれも神への全幅の信頼を、心から言い表すものとなる。私たちもこのように祈るなら、主イエスをどれだけ身近におられる方としているか、この方に心の底から拠り頼んでいるか、そのような信仰が表されることになる。
主イエスをすぐ近くにおられる方、いつも呼び掛けることができ、すぐ助けて下さる方として覚えているか、そのことについて、イエスが息を引き取られる前、神殿の幕が真っ二つに裂けたことを覚えておきたい。エルサレムの宮の聖所と至聖所を隔てる幕が裂けたことは、それまでの神殿での礼拝、いけにえを繰り返しささげる礼拝は終わりとなって、誰もがイエス・キリストを通して、何時でも、何処ででも礼拝をささげることのできる、そんな時代の到来を告げていた。主イエスが、何時でも、何処ででも、どんなことがあっても、私たち信じる者と共にいて下さることは、何と幸いなことであろうか。生きるにしても、また死ぬにしても、主イエスと同じように、父なる神に「わが霊を委ねます」と、心からの信頼をもって祈る、そんな歩みを日々させていただけるよう、なお一層祈り深い者とならせていただきたい。
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