礼拝説教要旨(2012.07.15)
主が、イスラエルのために戦われたから
(ヨシュア記10章  枝松律教師候補者)
     
前回、私たちは、ギブオンの人々が、イスラエルと盟約を結んだ記事を見ました。そこに見られのは、彼らが、主をおそれる中、イスラエルを欺いてでも、主の庇護の下に入りたいと必死に願う姿でした。

1.しかしこの盟約は、カナン南部の王達に、大きな恐れを生じる結果となり、カナン南部にある5つの町の王達が連合軍を形成し、ギブオンへと、彼らは、攻め上ってきます。ギブオン人たちは、連合軍の強大さの前に、すぐにヨシュアに使いを出し、9章で結んだ盟約に基づいて、救援を要請しています。「恐れてはならない」との主の励ましの下、ヨシュアもすぐに救援に応え、ギブオンへと上っていきました。そして主の奇跡によって、イスラエルは連合軍を打ち破り、5人の王達を処刑し、大勝利を上げることとなりました。しかし戦いはそれで終わず、すぐにイスラエルは、マケダ、リブナ、ラキシュ、ゲゼル、エグロン、ヘブロン、デビルという町や軍を次々に攻撃をしかけ、いちどきにイスラエルは、カナン南部を攻め取り、聖絶を行っていったのです。すべて主の言葉通り行った、と書かれています。

2.今日見たい点は、3つあります。
 @ ヨシュアが、ギブオン人の救援要請にすぐに応えたこと。
 9章で、イスラエルが主にかけて誓い、盟約(契約とも言い換えられます)を結んでいたが、イスラエルにとって、これを守ることは、主に従うことでもあったからです。またこの10章において、ヨシュアおよびイスラエルは、徹底して、主に従い通しています。(28節からの7つの町や軍に対する聖絶の記事や、40節の「イスラエルの神、主が命じられたとおりであった。」にみられる。)
 A 共なる主が戦われたこと。
イスラエルは、8節や25節にあるように、「おそれてはならない」という励ましの下戦っています。これは、ヨシュア記1章9節「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」との主の言葉が背景にあり、主が共にいてくださるという何よりの励ましの言葉でした。
 また14節と42節には「主が、イスラエルのために戦った」とはっきりとあり、実際、主が敵をかき乱し、雹の石を降らせ、天体をも支配したことが10節から13節には記されています。
共なる主が戦ってくださる、それこそが大勝利の決定的な理由であったのです。
 B 10章28節〜39節の記事の意味。
 ここでは7つの町の名前が出てきていますが、7つの軍を打ち破ったことは、完全数である7を用いることよって、主が与えたイスラエルの完全な勝利を表わしています。またここではカナン南部の町々を次々に聖絶していく記事がとても簡潔に駆け足のように記されています。これは、いかにすばやくイスラエルがカナン南部を攻め取ったかを表わしていますが、このことは、主が共にいるからこそ、すばやく占領できたということと、イスラエルが、一切、立ち止まらず、迅速に、主の言葉に従い通したことを示しています。
この10章全体は、イスラエルが、すばやく主に従い、かつ従い通した姿と、主が共におられ、主が戦ってくださり、完全な勝利を与えてくださったことが記されています。

3.私たちはこのような戦争の記事や、聖絶の命令に対して、キリスト者として何を見出していくのかを迷ってしまいやすいものです。しかしイスラエルが主の命令によって、カナンを聖絶し、占領していくことは、カナンの地を与えるという神様の約束と共に、偶像崇拝が盛んであった罪深いカナンと言う土地を、聖絶することによってきよめ、イスラエルに罪が入り込まないようにすること、つまり、霊的な意味において、罪に対するイスラエルの戦いと勝利を意味していました。そういった意味で、ヨシュア記というのは、イスラエルの罪との戦いと勝利が大きなテーマなのです。

結び.私たちもまた、イスラエルと同じように、神様の契約の中に生きる民達であり、罪との戦いに生きるよう導かれています。そしてイスラエルは、「おそれるな、雄々しくあれ、私が共にいる」との励ましの下、主に従う中、主が戦ってくださり、主の奇跡によって勝利を得たのです。このことは、私たちが罪との戦いに臨むにあたって非常に大きな励ましとなるのではないでしょうか。
 しかしながら、現代に生きる私たちとほとんど縁がない戦争の記事からの励ましです。頭ではわかっていても、私たちは、自らの罪の大きさに恐れを感じることもあります。何度罪から逃れようとがんばっても、何度も祈り、悔い改めても、繰り返してしまう、そういった自らの罪というものが、私たちにはそれぞれであると思います。そのことで自らを責めてしまうこともあるでしょう。罪を恐れずに、神様に従いきって、罪に勝利していくことの難しさを覚えずにはいられません。私たちは、罪に対して本当に無力だからです。
 ですが、勝利がすでに与えられているとしたらどうでしょうか。
 「主が戦われること」、これは私たちにとって、何を意味するでしょうか。それこそ、イエス様の十字架です。私たちは、イエス様が十字架によって、もうすでに私たちのために、罪に打ち勝ってくださったことを、イエス様と出会ったことによって、知っているではありませんか。
そして、そのイエス様が、今も私たちと共にいる、とおっしゃってくださっているのです。私達が、罪との戦いに悩み、自分でどうにかしようともがいてしまうとき、イエス様の存在こそが何よりの慰め、励ましです。
 私たちのために戦われ、罪に打ち勝ってくださったイエス様が、共にいてくださるのですから、それ以上の励ましと勝利への確約はありません。自分ではなく、イエス様が勝利を与えてくださっているのです。だからこそ、私たちは、自らの罪の故に、自分をいたずらに責めて、自分で自分を傷つけないようにしたいものです。イエス様こそが、私たちの傷をかわりに負ってくださったのですから。
 イエス様の勝利を知り、見ているわたしたちにとって、イエス様の姿こそが、私たちにとって何よりの希望なのです。罪との戦いを戦い抜くための何よりのものは、罪に勝利されたイエス様の姿にある、そのことを覚えて、神様に従っていく歩みをさらに確かにして、生きたいものです。