主イエスが、他の二人の犯罪人とともに十字架につけられたのは、午前9時頃であった。民衆がユダヤ人の指導者たちと一緒になってイエスを嘲り、その様子は、聖書が預言した通りとなっていた。(詩篇22:7-8、109:25)イエスご自身は、父なる神の救いのご計画を果たすために、十字架から決して降りることはせず、痛みに耐えておられた。その痛みは単なる肉体だけのものでなく、罪に対する神の怒りを一身に受け止める、内面の痛みを伴う壮絶なものであった。二人の犯罪人たちは、初めは民衆と一緒になってイエスを嘲っていたが、その内に、二人の思いに違いが表れ始めていた。一人は同じように悪口を言い続けたが、もう一人は悪口を言うのを躊躇うようになったのである。(39節)
1、犯罪人の一人は、民衆が騒ぎ立てるのと同じように、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と、痛みと苦しみから逃れることを願い続けた。十字架刑のむごさは、痛みや苦しみのまま放置する、そんな一面があると言われる。初めは幾らか強気でも、苦しみが去らないと分かると、恐れや怒りが入り交じり、嘲りはののしりに変わり、益々激しく叫んでいたのに違いない。イエスが神なら、先ず自分を救い、神であることを見せて欲しい、そして我々を苦しみから解き放ってくれ・・・と。何もせずに耐えているその姿に、苛立ちを覚えたものと思われる。けれども、もう一人の犯罪人は、苦しみもだえながら、イエスと自分たちの違いに、少しずつ思い至るようになっていた。彼も最初は、イエスを嘲り、人々と同じようにののしっていたが、やがて、自分との違いに目が開かれるようになっていた。彼は当然、バラバの釈放を知っていたと思われる。バラバの仲間であったなら、何故バラバが釈放され、自分が処刑されなかればならないのか、不本意にも思ったであろう。そしてバラバの代わりが、罪のないイエスとは何なのか、思い巡らしたに違いない。
2、彼は、もう一人の仲間と一緒になって、イエスをののしり続けることはできなくなって、仲間をたしなめた。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」(40〜41節)彼は、主イエスご自身と自分たちの違いについて、はっきりと目が開かれたのである。ゴルゴダの丘に着くまでのイエスのお姿を見たかどうか、それ以前のイエスの教えを知っていたかどうか、それらは不明である。けれども、十字架につけられたイエスを見て、語られた言葉を聞き、自分との違いを、はっきり知ることになった。当然の報いを受けている自分たちと、悪いことは何もしなかった方が、同じ刑に処せられている事実、これは何を意味するのか。このお方、イエスは特別なお方、この方に自分をお任せしたい、お任せしようと、心を決めたのである。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」(42節)彼は自分が犯した罪を認めていた。そしてイエスを神と信じ、このお方に全てを任せる信仰を、はっきりと言い表した。自分の命が、やがて終わろうとする、そのぎりぎりの時であったが、神を信じる信仰を言い表すことができたのである。
3、そして彼は、主イエスより最高の言葉をいただいた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」それは確かな救いの約束であった。(43節)将来の約束ではなく、今、十字架の上で、苦しみの最中での救いの約束である。「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」主イエスが共におられることの幸いは、何時でも、何処でも、確実なこととして約束されている。私たちも含めて、幸せや救いは、将来のこと、やがてのこととして待ち望む傾向が強い。この犯罪人も、終わりの日の救いを信じて、「・・・私を思い出してください」と願った。けれども、主は「あなたはきょう、わたしとともパラダイスにいます」と、痛みと苦しみの中にあっても、「わたしは、あなたとともにいる」と約束されたのである。神が共におられる所、それによって人が守られる幸いな場所、その幸いな場所が「パラダイス」である。今、この地上にあってその場所は備えられ、将来においても備えられる場所である。彼は、今にもその生涯を閉じようとしていた時であったが、心を満たされ、真の安らぎを得たのである。
<結び> この日、ゴルゴダの丘に三本の十字架が立てられた。主イエスの十字架を真ん中にして、二人の犯罪人も磔にされていた。民衆の嘲り、ののしり、それに女たちのすすり泣きが聞こえていたであろう。犯罪人たちの呻き声も響いたに違いない。もちろんイエスご自身の呻きも・・・。しかし、主イエスは、はっきりと分かる言葉を残しておられた。その一つが、この43節の言葉であった。この言葉を聞いた犯罪人は、どれだけ心を打たれたことであろうか。そして私たちは、それを自分に当てはめることができるかどうか、そのことが問われている。
主イエスの十字架を見上げるなら、その時、自分はどちらの犯罪人であるか、自分に問うように迫られる。どんな人でも、自分の命に向き合う時、必ずのように、自分のそれまでの生き方を問われるものである。神を意識せずとも、生き方を振り返るのは、人の一生につきもので、折々にその時が迫る。増して、死が迫り、神を意識する時は、全ての人に必ず備えられるものである。そして自らを省みることは、途方もなく尊いことである。この犯罪人は、その時を与えられ、心からの悔い改めに導かれた。他方、もう一人は、その時にあっても、悔い改めることはせず、悪口を言い続けていた。そのことが私たちに教えているのは、神の救いの恵みは、地上の命の終わる間際でも、心から罪を悔いる者に、確実に注がれているという事実である。そして、その恵みに与る者は、例え今、苦しみの中にあっても、主イエスと共にいる、最高の慰めをいただけるという約束である。今朝ここに集う全ての者が、この救いに招かれているのである。救い主を信じ、救い主イエス・キリストと共に生きる本当の幸いを頂いて、この地上の生涯を歩ませていただこうではないか。
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