いよいよ主イエスが十字架につけられたクライマックス、このために神の御子が人となって、この地上を歩まれたのである。「どくろ」と呼ばれている所、「ゴルゴダの丘」へ連れて来られたイエスと、他の二人の犯罪人はそこで磔にされた。(33節)この福音書は、あっさりとその様子を記しているが、それは、聖書に預言されていた通りに、イエスもまた犯罪人の一人とされ、処刑されたことを告げている。ご自身は罪がなくても、罪ある者の代わりになって死なれたこと、正しく受難のメシア、救い主であることを、読者が悟ることを願って記されているのである。(イザヤ53:4〜12)
1、十字架の場面に関して、その場の痛みや苦しみ、またむごたらしさを感じ取り、読み取ることの難しさがある。主イエスが味わわれた苦しみや痛みに、聖書はほとんど触れていないからである。どんな手順で三本の十字架が立てられたのか、釘を打ち付ける音がどのように響いたのか、イエスがどのような表情をしておられたのか、いずれも想像する他はない。そんな中でルカ福音書は、イエスが発せられた言葉を記し、兵士たちが着物をくじで分ける様子、民衆や指導者たちがイエスを嘲った言葉、そして兵士たちが酸いぶどう酒を差し出したこと等を描き、十字架の周りを取り巻く人々が、本当のことは全く何も分からずにいた様子を浮き彫りにしている。イエスを嘲る言葉のほとんどが、「他人は救ったが、自分は救えないのか」「自分を救ってみろ」と、十字架の上で、じっと痛みに耐えておられる、その様子に対するものであった。十字架から降りて来るなら、「神のキリスト」「救い主」と認めよう・・・と。けれども、主イエスは十字架の上で、いささかの割引もなしに痛みと苦しみを味わい、罪の刑罰としての死を、その身に引き受けておられたのである。
2、「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。」(34節)兵士たちは、感情を押し殺すようにして、自分の務めを果たしていたに違いない。処刑される者の着物を分け合うことが役得であったが、上着の着物はくじを引くことになった。これも預言の言葉を思い出すことである。(詩篇22:18)全てのことが、そこにいる者たちの思いと無関係のように進んでいながら、生ける真の神が約束されたこと、罪人の救いの道を開くための手順は、次々と成就していることが明らかにされている。民衆や指導者たちの嘲りとその言葉も、(詩篇22:7、8)そして、酸いぶどう酒を差し出したことも、詩篇の中で告げられていたことである。(詩篇69:21)主イエスは、罪ある者の罪を赦すためにこそ、十字架に架かっておられた。その意味を込めて、「父よ。彼らをお赦しください」と祈られた。今は全く分からなくても、いずれ分かる時が来ること、人々が心を開いて悟ることを信じておられた。罪を赦すため、ただそのために身代わりとなっておられたのであり、だからこそ、「彼らをお赦しください」と祈られたのである。
3、嘲りの言葉は、民衆も指導者たちも、そして兵士たちも、それぞれ、「もし、神のキリストで、選ばれた者なら」「ユダヤ人の王なら」と言い、本当にキリストなのか、本当に王なのかを問いつつ、その証拠を見せてほしい、見せてみよと迫っていた。これまでにイエスご自身は、数々の「しるし」を見せ、「証拠」も明らかにしておられた。それらを認めないで、自分たちに分かるよう、「しるしを見せよ!」というのが、人々の要求であった。その究極が「自分を救ってみろ」であり、「自分を救え」であった。今、目の前で十字架から降りるなら、信じよう、信じてもよい・・・と言うのである。イエスの頭上に、「これはユダヤ人の王」との札があった。総督ピラトは、イエスを「ユダヤ人の王」と認め、そのように札を掲げることをもって、自分の主張を通そうとした。そしてイエスご自身は、確かに「ユダヤ人の王」として、しかも全ての人にとっての「真の王」として、十字架の上で苦しみと痛みを耐え、イエスを信じる全ての者が、「罪を離れ、義のために生きるため」の道を、確かに開かれたのである。自分を決して救おうとされなかった方、十字架の主イエスこそ、真の王、真の救い主である。(ペテロ第一2:24)
<結び> この世の王と、何と違いがあることか。この世の王や地位のある者、上に立つ者は、あらゆる危害から真っ先に守られるようにと、万全の警備が敷かれるのが常である。警備の者は死を賭して王を守り、戦いに出るのは、命を惜しまれることのない民である。王一人の命と比べ、何人がいても比べられないかのようである。それとは違い、真の王は、ご自分の命を捨ててまで、信じる全ての人の命を贖おう、救おうとされたのである。十字架から決して降りようとされなかったこと、決して自分を救おうとしなかったことには、途方もない大きな愛が込められていたのである。
(ローマ5:8、ヨハネ第一4:9〜10)
「もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ」、また「ユダヤ人の王なら、自分を救え」との嘲りは、イエスご自身の心を揺さぶり続ける、悩ましい言葉であった。激しい痛みや苦しみに耐えかねる時、どんな人でも信念を曲げかねないからである。主イエスはそのような誘惑とも戦い、苦しみを味わっておられた。そして、その誘惑に耐え抜かれた。自分を決して救わなかったのである。この方が私たちの救い主、真の王であられる。この王に従う民こそ、幸いな民である。そして、この王に従う者は、この方に倣う者として生きるよう、期待されているのである。そのカギとなること、それは、罪を赦された者として、互いに赦し合う心をもって生きることにある。現実の私たちには、そのことの難しさが迫ってくる。けれども、十字架の上で主イエスが祈られた祈りを覚え、その十字架から、決して降りることをしなかった、その意味を覚えて、イエスに倣う者とならせていただきたい!
(エペソ4:17〜32、※32節)
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