ガラテヤの教会は、かき乱す者たち(1:7)の陰謀に落ち、パウロが教えた福音の真理(2:4,14)から離れ、ユダヤ教律法主義の奴隷になりかけている信徒たちからなる教会でした。このことを通してパウロが、この地に伝道し、教会を形成しながら信徒たちとどのような関係を築いて来たのか、そしてパウロは今、どう回復しようとしているのかを垣間見ることが出来ます。このことは今日の私たちキリスト者に何を語っているのか、教えられてまいりたいと思います。
1、まず、私たちは、「福音の真理」の教えそのものをしっかり学び取り、信仰を揺るぎないものとすることに熱心であるべきことです。
ガラテヤの教会の信徒たちは、パウロを「神の御使いのように、またキリスト・イエスご自身であるかのように」(14節)迎い入れ、「もしできれば自分の目をえぐり出して私(パウロ)に与えたいとさえ思い」(15節)、パウロを「熱心に慕っていました」(18節)。しかし、今は、パウロの敵(16節)にさえなってしまっています。ガラテヤの教会の人たちは、いったいパウロの何を慕い、何に熱心になっていたのでしょうか。たしかに、ガラテヤの地は、異邦人の国々ですから、まことの唯一の神様を受け入れるには、おいそれとはいかないはずです。しかし、14−16節のうるわしい交わりがあったこと、そして、「御霊を受けた」(3:2)ことは事実です。かき乱す者たちの手に落ちたとしか言いようがありませんが、一方で、パウロの「福音の真理」の教えそのものをどれだけ真剣に聴き、信じて、与えられた “御霊によって歩んで”来たか(5:16)が問われます。パウロは、“十字架につけられたイエス様を目の前にはっきり示し”(3:1)、私たちはイエス様を信じ・身に着る(3:27)ことによってだけ神様に義とされ、救われる、という福音の真理を教えたのでしたが、教えを忠実に守り、生きたのは、パウロがいっしょにいた時だけのことであったのです(18節)。
しかし、私たちは、このガラテヤの教会の人たちの信仰を裁くことが出来るでしょうか。たしかに、宣べ伝える人がいなくては福音を聞くことは出来ませんが(ローマ10:14参照)、私たちもまた、人にも熱心である二心のある聞き方をすれば、何らかの逆境の出来事の中で、その二心があばかれ、「福音の真理」の教えから離れ、やがて背くことになることを覚えたいのです。
誰(WHO)が語ったのかではなく、何を(WHAT)語ったのかを聞き分け、見極める識別の御霊の導きを仰ぎたいのです(ピリピ1:9,10参照)。パウロが伝えた「福音の真理」の教えそのものをしっかり学び取り、信仰を揺るぎないものとすることをさらに祈り求めてまいりたいと思います。
2、次に、「あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」(19節)。パウロが主にある望みに支えられていたことに教えられたいと思います。
「キリストが形造られる」ことの内実の一つは、2:20ではないでしょうか。こうあります。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」
しかし、このイエス様は、かき乱すものたちによって、無意味になりかかっています(2:21節参照)。
そして、パウロは途方に暮れているかのようですが、回復の確かな望みを持っています。先にも触れましたように、パウロとガラテヤの人々との出会いが、聖霊の導きによって起こされていること(使徒16:6)であり、14−16節にあった熱い好意は、パウロにとっては神から出たものだったからです。
パウロは、これまでこの異邦人の地で福音を教え、祈り、信徒を育て、教会を形成する、産みの苦しみをして来ました。かき乱すものによって、それらは崩れ落ちようとしていますが、パウロは、「あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」と記します。パウロは、さらなる望みを持ってすでに行動を起こしています。それは、この手紙を書いたこと自体に、そして手紙の中で「今あなたがたといっしょにいることができたら、・・・話せたらと思います。」(20節)と望みを記しているからです。
かき乱す者たちなどによって決して揺り動かされない、主イエスが、その中にしっかり形造られた、成熟したキリスト者を生みだし、主イエスの体なる、自立した教会に成長させる望みが与えられているからです。
ひるがえって、私たちもまた幾人かの愛する者のために、また教会のうちにキリストが形造られるまで、産みの苦しみをしている一人ひとりではではないでしょうか。パウロに励ましを与えられた“望みの神”(ローマ15:13)を覚えて、私たちも日々信仰に生きることにおいて良い証を立て、祈り続けながら、愛する者、隣人の救いのために、教会の成熟ために神の時を待ちたいと思います。
3、さらに、パウロは、ガラテヤの教会の人たちが陥っていることの本質を鋭く見極めて、ことの重大さを自覚させようとしていることに注目したいのです。
16節にはこうあります。「それでは、私は、あなたがたに真理を語ったために、あなたがたの敵になったのでしょうか。」
「真理」すなわち福音の真理を語ったのは確かにパウロです。そして福音の真理(救いの真理)そのものは、神のひとり子であるイエス様ご自身です。パウロは、イエス様を信じていますから、パウロとイエス様、福音の真理はひとつです。ですから、パウロの敵となることは、福音の真理の敵、イエス様の敵となること、ひいては、神様の敵となることを意味しています。ガラテヤの教会の人たちはそのことに気づいていません。自分たちが、本当は何をしているのか、分からないのです。
「あなたがたの敵になったのでしょうか。」は、問いかけになっていて、厳しさをひそめていますが、パウロの本心はこうです。“あなたがたは、私の敵になっている。そのことは、即、主イエスと唯一のまことの神の敵になっていることである。”
ガラテヤの教会の人たちが、パウロの敵となったのは、パウロが、福音の真理を語った故でした。イエス様もまた旧約の預言者たちも福音の真理、神様のことば(=真理)を語ったゆえに、多くの人々のかたくなさの敵となりました。
私たちの信仰も気付かないうちに自己流になったり、生来のかたくなさに縛られて、福音の真理からズレ、離れ、パウロとイエス様、ひいては神様の敵となりかねません。恐ろしいことです。聖書のみことばにしっかり立ち、聖霊の導きを常に祈り求め、教会の交わりの中で正され、きよめられてまいりたいと願う者です。
最後に、ヨハネ福音書8:45−47を読みます。 |
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