「この人には何の罪も見つからない」と、イエスの無罪を確信しながら、ピラトは、それを貫くことはしなかった。マタイの福音書は次のように記している。「そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。『この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。』すると、民衆はみな答えて言った。『その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。』」「十字架につけろ」と叫んでいたのは、民衆も含めたユダヤ人たちであって、ピラトは混乱の収拾から手を引くように、イエスを十字架につけるため、民衆に引き渡していた。刑の執行を任された兵士たちは、イエスを侮辱し、痛めつけた上で十字架を負わせ、ゴルゴダの丘へと引き立てて行った。(※マタイ27:24~31)
1、その途中の様子、「悲しみの道」と言われる坂道を主イエスが引き立てられていた時、クレネ人シモンが十字架を負わされたこと、そしてイエスが、民衆の中にいた嘆き悲しむ女たちに語られた言葉を、この福音書は記している。主イエスは、既に激しい鞭打ちで、体力を消耗しておられた。十字架を負うその足下はおぼつかなかったのであろう。兵士たちは、シモンというクレネ人をつかまえ、イエスの十字架を無理矢理に負わせ、運ばせた。彼は十字架を背負って、「イエスのあとについて行った。」(26節)それは弱ったイエスを思いやるどころか、刑の執行を遅らせないためでもあった。不意のこと、全く予期しなかったことで、シモンは恐れと戸惑いの中に包まれた。彼は過越の祭りのため、遠くのクレネ地方、北アフリカ、現在のリビヤ領の町から、敬虔なユダヤ人として、礼拝のためにエルサレムに来ていた。それなのに心を静めて礼拝をささげるどころか、犯罪人の処刑場へと連れて行かれることになり、このことが自分の身に何をもたらすのか、はなはだ心騒ぐ状況に追い込まれていた。彼は何を思い、何を考えながらイエスについて歩んでいたのだろうか。
2、その他に、「大ぜいの民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れが、イエスのあとについて行った。」「十字架だ。十字架につけろ」と叫び続けた民衆は、歓喜するように「イエスのあとについて行った」のに違いない。そして、その群れの中に、「嘆き悲しむ女たちの群れ」が早々といたのである。いわゆる「泣き女」と言われる女たちが、葬式の際に雇われる習慣があったが、この場合、民衆の中から、進んでその役割を担おうとした女たちがいたのか、祭司長たちが手回ししていたのか、どちらとも考えられる。いずれにせよ、本心からイエスの死を嘆き、悲しんだとは思えなかった。主イエスは、彼女たちの心の中を見通しておられた。そして彼女たちに言われた。「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。・・・」(28~30節)「わたしのことで泣いてはいけない」と、ただ言われたのではなく、今後、もっと本当に泣くべきこと、嘆き悲しむことがあることに気づくよう、そのことを教えようとされた。世の中の考え方が逆転する、とてつもない悲惨が襲うことになる、その事実を忘れないように・・・と。通常は不妊を不幸としていても、子どもがいないことが幸いと思う、そんな悲惨が必ず待ち受けている。生きているより、山が崩れて死ぬことを願う程に・・・と。主イエスは、エルサレムの滅亡について、先にも触れておられ、涙しておられたのである。(ルカ19:41以下、21:20以下)
3、そして言われた。「彼らが生木にこのようなことをするなら、枯れ木には、いったい、何が起こるでしょう。」(31節)イエスは、人が考えることや価値観が大転換する、どんでん返しのあることを暗示された。生木と枯れ木は、一体何をさしているのか。命あるものと死んだものを指している。ご自身のことを「生木」にたとえ、「このようなことをする」は、十字架に追いやり、亡き者にしようとしていることを指している。そして、神と、神が遣わされた救い主を不必要とする者を「枯れ木」にたとえ、そのような人々には、どれ程悲惨な裁きが待ち受けているのか、その悲惨に思いを向けるよう、警告を発しておられたのである。この世が神なしでよいとするなら、その行く末は裁きであり、滅びでしかないことを、全ての人は悟らなければならない。人の罪の激しさと恐ろしさ、その底なしさを認めなければ、待っているのは裁きと滅びである。今日の社会の現実はどうであるか、私たちの目にも明らかである。富を追求し、人間の万能さを誇り、今や取り返しのつかにない所に来てしまったかのようである。神なんかいらない、人間の力で全ては解決できると、傲り高ぶっているのではないか。今悔い改め、立ち止まることを迫られている。
<結び> 罪のない方、主イエスにとんでもない仕打ちをしでかしつつ、自分の行く末に思いを向けない者、滅びに向かうしかない罪人こそ、自分に待ち受けている悲惨を、心の底から嘆き悲しむことが必要であった。この問い掛けをはっきりと聞いたのは、イエスの十字架を代わりに背負わされていた、クレネ人シモンであった。彼は、その後、起こることの全てを見聞きし、イエスが誰であるか、この方は、何故、十字架で死なれたのかを考えた。そしてイエスを救い主と信じる信仰へと導かれたと思われる。彼は「アレキサンデルとルポスとの父」と紹介されている。(マルコ15:21)そして、一世紀のローマの教会にいた「ルポス」とその「母」こそ、このシモンの家族と考えられている。(ローマ16:13)生涯で最大の不運のように思えたイエスとの出会いは、彼にとって、永遠のいのちに導かれる機会となり、人生最大の幸せを掴むことになった。嘆き悲しむ女たちの中からも、心から悔い改め、イエスを信じる者が起こされたものと信じたいが、聖書には確たる記述はない。はっきりと記されているのは、イエスの復活の後、五旬節(ペンテコステ)の日に、民衆の中から多くの人が悔い改めた事実があったことである。(使徒2:36~41)
心を開くか否か、聖書を読む私たちも問われている。今朝ここに集う一人一人が・・・。本当に大切なことは何か。本当に嘆き悲しむべきことは何か。人生において一番大切な問いを、私たちは理解しているだろうか。今のこの時代は、このまま進んで行くのだろうか。いや進んでよいのか・・・。(今、国会で審議されていることは、このままでは日本は潰れる・・・と言われているが・・・。)本当に大事なことは、私たち人間のたましいのことである。神に造られた人間の、根元のことこそが大切なのではないか。人間のたましいは、神なしのままでは滅びるしかないことに、全ての人が気づかねばならない。たましいの救いのために、主イエス・キリストがおられるのである。主イエスは十字架につけられる前に、なお人々に目を覚ますよう、そして「わたしを信じなさい」と、憐れみのまなざしを注ぎ続けておられたのである。シモンはそのまなざしに触れたのに違いない。私たちも主イエスのまなざしとそのみ思いに触れ、イエスこそ私の救い主ですと、確かな信仰に思い新たに導かれたい。
(※ペテロ第一1:8~9)
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